クイズで確認 知ってるつもりの日本人 ―― (43)源義経

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について「伝記」一冊分を読みおえたレベルの内容を“頭の運動”的な親しみやすいクイズ形式にまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1

  • タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
クイズ43
源義経
- クイズで源義経を確認しよう!
タテ
A a 平家に捕らわれた義経は、将来の出家を条件に助命され、洛北の○○○に預けられた。
A d 一ノ谷の戦いで平家に勝利した義経は、頼朝の許可を得ずに○○○○・左衛門少尉に任官したため頼朝の不興を買い、一時平家追討の任を解かれた。
A h 1184年の一ノ谷の戦いで、義経は俗に「○○の逆落とし」と呼ばれる戦術で奇襲に成功したとされる。
B b 頼朝の不興を買い鎌倉に入ることを許されなかった義経は京都に戻ったが、頼朝が派遣した刺客である○○○○○の襲撃を受けるなどして、遂に頼朝に対抗する決意を固めた。
C b 頼朝の不興を買ったため、平家を滅ぼすという大功を立てながら鎌倉に入ることを許されなかった義経が、頼朝へのとりなしを依頼するため大江広元に宛てて書いた書状が「○○○」として知られるが、真偽は不明である。
D c ○○○○は伝説上の大盗賊で、奥州へ下る義経一行を襲ったが、義経の活躍により討たれたとされる。
D g 平家に捕らわれた義経は寺に預けられ、○○○と呼ばれた。
E a 1189年、義経は頼朝の圧力に屈した○○○○に衣川の館を攻められ自害した。
E h 源○○は頼朝の弟で、義経の兄。義経と共に西国に派遣され、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。後に謀叛を疑われ伊豆に流された。
F a 後世に、実は義経は衣川の館で死なずに落ち延びたとする数々の伝説が生まれ、アイヌの神である○○○○○やモンゴル帝国の建国者であるチンギス・ハーンなどとも結び付けられた。
G a 「○○○」は五条橋における義経と弁慶の出会いを描いた能・歌舞伎の演目である。
G d ○○○○は元々奥州藤原氏の家臣で、義経に属して平家との戦いで活躍し、弟の忠信らと共に義経四天王の一人に数えられた。屋島の戦いで義経の身代わりとなって敵将の矢を受け討死にしたとされる。
H b ○○○○は伝説上の陰陽師・兵法者で、文武に優れ、京都の一条堀川に住んでいたという。義経は○○○○の娘の手引きにより秘蔵の兵法書を読むことができたとされる。
H g 義経は○○○という幼名でも知られる。
I b 熊野新宮別当の○○は平家と結んで勢力を伸ばしたが、頼朝の挙兵後に源氏方に転じ、熊野水軍を率いて壇ノ浦の戦いなどで活躍した。
I d 1185年に義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすまでの、源平の合戦を中心とした内乱を当時の年号から○○・○○の乱と呼ぶ。
ヨコ
a A ○○○○は頼朝に重用され、軍奉行として義経の平家追討軍に同行した。屋島の戦いにおける「逆櫓」の献策などをめぐって義経と対立し、頼朝に讒訴して失脚させた。
a G 「○○○」は能の「安宅」に取材した歌舞伎の演目。頼朝に追われて奥州へと逃れる義経一行が安宅の関で見とがめられるも、弁慶の機転により切り抜けるというあらすじである。
b B 1185年の屋島の戦いにおいて、平家方が小舟に立てた扇の的を義経に命じられた○○○○が見事に射落とした話が名場面として知られる。
c E 神奈川県藤沢市の○○神社は、義経の首を埋めた地と伝えられ、義経を祭神としている。
c H 常陸坊○○は義経の家臣で、衣川で義経が死去した後も生き延びたとされる。江戸時代に源平合戦のことをよく知っている老人がおり、尋ねてみると実は○○であったという不老長寿伝説が存在する。
e C 義経が平家を滅ぼした壇ノ浦の戦いは、敵将の○○○に追われた義経が8艘の船に次々と飛び移って逃れたという「八艘飛び」の伝説で有名である。
f B 義経は平家によって仏門に入らされたが、成長すると寺を抜け出し奥州平泉の○○○○の庇護を受けた。
f F ○○○○は少年時代の義経に随従したとされる伝説的な人物で、義経が寺を抜け出して奥州に向かうのを助けた伝えられる。
g A 1180年に兄の頼朝が平家に対して挙兵すると、義経はこの軍門に加わるため平泉を離れ、駿河国○○○の陣で兄と対面を果たした。
g E 1185年、頼朝は北条時政を派遣して後白河院と交渉させ、義経追捕のために○○・○○を設置することを認めさせた。
h B ○○○は平清盛の三男で、清盛の死後に一門の総帥として平家を率いたが、壇ノ浦の戦いで義経に敗れて捕らえられた。義経に伴われて鎌倉に護送された後、京都に送還される途中に近江国で殺害された。
h F 『○○○○』は、権勢を誇った平家が没落し、壇ノ浦の戦いで義経に敗れ滅亡する過程を描いた軍記物語である。
i A 義経が生まれて間もなく父の源義朝は○○の乱に敗れて死去し、義経は母や兄らと共に平氏に捕らえられた。
i C ○○○○は以仁王の令旨を受けて挙兵し平家を都から追い落としたが、後白河法皇と対立し、頼朝が派遣した義経らの軍に粟津の戦いで敗れて討たれた。
i G ○○○は義経の愛妾で、京都の白拍子。義経が頼朝に追われて京都から逃亡した際に同行したが、捕らえられて鎌倉に送られ尋問を受けた。頼朝の前で義経を慕う歌を歌って頼朝の不興を買い、北条政子がこれをなだめたとされる。
  • ヒント
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クイズ42
宇喜多秀家
- クイズで宇喜多秀家を確認しよう!
タテ
A a 秀家は、○○○○の娘で秀吉の養女となっていた豪姫を正室とした。
A f ○○○○の名で知られる宇喜多詮家は、1600年の家中騒動の際に宇喜多家を去り、関ヶ原の戦いには東軍として参加した。
B c 秀家の父の直家は○○○○に仕える部将であったが後に背き、天神山城を攻略してこれを追放した。
B h 1601年、秀家は仏門に入り○○と名乗った。
C b 1606年、秀家は○○○に流罪とされ、以後死ぬまで同地で暮らした。
C e 秀吉は中国・朝鮮を征服した暁には○○の豊臣秀次を中国の○○とし、日本の○○に豊臣秀保か秀家を据え、朝鮮には織田秀信か秀家を置くという構想を持っていた。
D c ○○○○は25600石もの領地を有した大身の家臣で、1600年の宇喜多家家中騒動の中心人物の一人。騒動を起こした後は徳川家康の所領である岩槻に配流とされ、関ヶ原の戦いの際には東軍として参加した。
E f 1598年、豊臣秀吉は死の直前に、秀家を含む5人の有力大名と5人の吏僚(いわゆる「○○○」「五奉行」)により政権を運営するよう遺言した。
F b 宇喜多○○は備前守護代に仕えて武将として活躍したが1534年に島村豊後に居城を攻められて自害し、これにより宇喜多氏は一旦没落した。
G a 秀家は豊臣政権下で若くして異例の出世を遂げ、1594年には従三位○○○○の官位を授けられた。
G e 1579年に秀家の父の直家が毛利氏から織田氏に寝返ったため、以後宇喜多氏は毛利氏と争うこととなり、1582年に直家が死去した直後の○○合戦では大敗を喫した。
G h 秀家は35歳で流罪とされてから○○の世まで同地で過ごし、1655(○○元)年に84歳で死去した。
H c 明治時代となった後に宇喜多家はようやく赦され、1872年に政府から○○区の土地約2万坪と1500円を与えられた。
H e 関ヶ原の戦いは、○○○○・松平忠吉の部隊が宇喜多隊に攻めかかったのをきっかけに戦端が開かれた。
I b 1593年、文禄の役における○○○の戦いで秀家を総大将とする日本軍は明軍を破り、これを機に講和の機運が高まった。
I e 関ヶ原の戦い後、没収された秀家の旧領には○○○○○が新しい領主として入った。
ヨコ
a A 1600年、宇喜多家中の対立の結果、奉行人であった○○○○○○が襲撃され、これに加わった多くの重臣が宇喜多家を去るという家中騒動が起こった。
a G 秀家は父・直家と母・○○○の間に1572年に生まれた。
b B 1600年、徳川家康に対して挙兵した西軍は○○○○が守る伏見城を攻撃し、秀家もこれに加わった。
b H 秀家は領主として○○城を修築し、城下町を整備した。
c E 関ヶ原の戦いで敗れた後潜伏を続けていた秀家は、1601年に○○氏を頼って薩摩に入った。
d E 秀吉は秀家の姉を自らの養女とした上で○○○○に嫁がせ縁戚関係を結んだ。
e A 秀家は早島から倉敷にかけて堤防を築き、○○湾干拓の先蹤をなした。
e C 豊臣秀吉の死後権勢を強める徳川家康に対して、これに反発する諸大名は○○○○を総大将として1600年に挙兵し、秀家もこれに加わった。
f F 秀家の正室の実家である○○藩は、秀家が流罪とされて後、明治に至るまで宇喜多家に仕送りをして生活を支え続けた。
g A 関ヶ原の戦いにおいて宇喜多隊は東軍の○○○○の部隊と交戦し、一時は退却にまで追い込んだ。
g F 1588年に○○○天皇が聚楽第に行幸した翌日、諸大名が秀吉への忠誠を誓った起請文において、秀家は織田信雄・徳川家康らと共に、他の大名と身分差のある6人の重臣と位置付けられた。
h C 毛利氏から織田氏に寝返った宇喜多氏は、中国方面の攻略を担う羽柴秀吉に従い、○○○○城の攻撃に一万余の将兵を供出するなどして貢献した。
i B 1599年に○○○○が加藤清正・黒田長政ら七将に襲撃される事件が起きた際に、○○○○は一時秀家の屋敷に匿われた。
i F 1600年の宇喜多家の家中騒動の発端となる襲撃事件を起こした首謀者は○○○○のもとを訪れて庇護を求め、○○○○がこの事件を調停することとなった。
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