クイズで確認 知ってるつもりの日本人 ―― (47)源頼朝

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について「伝記」一冊分を読みおえたレベルの内容を“頭の運動”的な親しみやすいクイズ形式にまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1

  • タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
クイズ47
源頼朝
- クイズで源頼朝を確認しよう!
タテ
A a 1180年、頼朝は伊豆国目代を殺害して軍事行動を開始したが、直後の○○○の戦いで大庭景親ら平氏方の軍に大敗した。
A e ○○○○は頼朝の圧力に屈して平泉に身を寄せていた義経を襲い、その首を頼朝に差し出したが赦されず、頼朝の大軍に攻められ滅ぼされた。
B a 1180年、鎌倉に入った頼朝は源氏の氏神である○○○○○を現在地に移し、鎌倉の中心に据えた。○○○○○は幕府の公的行事の場とされ、鎌倉御家人の精神的支柱となった。
B g 頼朝は後白河天皇の皇子である○○○が発した令旨を旗印として東国の武士を糾合した。
C b 頼朝の叔父の源○○は頼朝の挙兵後に独自の行動をとり墨股川で平氏軍と戦ったが敗れ、頼朝に所領を請うたが拒否された。義経と頼朝が対立した際には義経と結んで頼朝に対抗したが捕らえられて斬られた。
C e 後白河法皇が義経に頼朝追討の宣旨を出すと、頼朝は東国の大軍を派遣して威圧し、法皇に対して政治的要求を承認させた。その一つは義経捜索の名目で○○・○○を設置することであった。
E a 1160年、東国に落ち延びようとした頼朝は途中で父義朝の一行とはぐれ、美濃で○○○の郎等平宗清に捕らわれて京都に送られた。
E f ○○○○ははじめ朝廷の中堅官僚であったが、鎌倉に下向して頼朝に仕え、初代政所別当などを務めたほか、しばしば京・鎌倉を往復して朝幕間の折衝に当たった。
G a 1190年、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は上洛して後白河法皇と対面し権大納言・○○○○○に任じられたが、まもなく両官を辞して鎌倉に帰った。
G h 1180年、頼朝は御家人統率機関として○○を設置し、和田義盛を初代別当に任じた。
H b 1195年、頼朝は○○○再建供養への出席を名目として上洛し、後宮の実力者である丹後局としばしば会談した。これは長女を後鳥羽天皇に入内させるための交渉であったと考えられている。
H e 1180年、○○○西岸に布陣した平維盛の軍は水鳥の羽音を敵襲と誤認して総崩れとなり敗走したとされる(○○○の戦い)。『吾妻鏡』には甲斐源氏も頼朝の指揮下にあったように書かれているが、近年では甲斐源氏が戦いの主体であったと考えられている。
I b 頼朝は御家人○○○○が亡妻の追福のために相模川に架けた橋の落成供養に出席した帰りに落馬したのがもとで死去したとされる。
I g 頼朝は長女の○○を後鳥羽天皇に入内させようとしたが、源通親や丹後局らにつけ込まれて政治工作に利用され、親幕府派の公卿の失脚を招く結果となり、○○も1197年に死去した。
ヨコ
a A ○○○○は頼朝の支持を受けて摂政(後に関白)となり、後白河法皇の死後は頼朝との強固な協力関係により朝廷の政治を主導したが、1196年の政変で失脚した。
a E 平家が滅亡するとその所領は朝廷に没収され(これを○○○○○と呼ぶ)、後にその大部分が頼朝に与えられて幕府の経済的基盤となった。
b C 1180年に挙兵した頼朝は、はじめに伊豆国目代の○○○○の館を襲撃し、これを討ち取った。
c D 平氏に捕らえられた頼朝が斬罪とされず一命を助けられたのは、平清盛の義母である○○○の助命嘆願によるとの説が有力である。
c H 頼朝の母は○○大宮司藤原季範の娘である。
d A 1183年のいわゆる「○○○○○○宣旨」により頼朝は朝廷から正式に東国の支配権を承認された。この宣旨の歴史的意義をめぐっては、東国政権成立の画期として高く評価する見解と、朝廷の承認を得たことを権力の後退とする見解とが存在し、研究者の間で評価が分かれている。
e D 頼朝が挙兵した際に平氏方の大庭景親に属したが、敗れた頼朝に内応してその危機を救った人物。以後頼朝の信任を得て側近となり権勢を誇ったが、頼朝の死後に他の御家人の弾劾を受けて失脚した。
f A ○○(俗名遠藤盛遠)は1173年に後白河法皇に神護寺への荘園寄進を強請して伊豆に流され、配流中の頼朝と出会った。80年には法皇の院宣を仲介して頼朝に平氏に対する挙兵を促した。
f D 頼朝は伊豆に配流されている間に在地豪族の北条時政の娘○○と結婚した。
f F ○○○○は母が頼朝の乳母の妹であった関係で、伊豆に配流された頼朝に京都の情報を送っていたとされる。幕府成立後は京下りの文官として頼朝の側近となり、初代問注所執事を務めた。
g D 1184年に義経が頼朝の許可を得ずに○○○○・左衛門少尉に任じられたことが両者の不和の一因となった。
h B 頼朝が1193年に挙行した○○○○○は、武家政権が確立したことを内外に示すデモンストレーションの意味を持つ重要な行事であった。この時嫡男の頼家が初めて鹿を射止めて武家政権の後継者の資格を有することを示し、頼朝は大いに喜んで祝宴を催した。
h H 頼朝の死後、二代将軍には頼家、三代将軍には○○(いずれも頼朝の子)が就任したが、1219年に○○が暗殺されて源氏将軍は三代で絶えた。
i A 頼朝は1160年の○○○○で父の義朝に従い初陣に臨んだ。義朝は藤原信頼と共に一時政権を握ったが平清盛に敗れ、東国に逃れる途中で謀殺された。
i F 伊豆国の豪族。平氏に仕え、伊豆に流された頼朝の監視を命じられ、頼朝が娘との間に子をもうけると平氏を憚ってこの子を殺した。頼朝が挙兵した際には平氏方として戦い頼朝を敗走させた。後に捕らえられ、罪を赦されたが自殺した。
  • ヒント
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クイズ46
足利尊氏
- クイズで足利尊氏を確認しよう!
タテ
A b 1339年に後醍醐天皇が死去すると、尊氏はこれを悼んで京都に○○○を創建した。
A f 直義を破って1352年に鎌倉に入った尊氏は、○○○○の挙兵によって混乱した関東の政情を回復させるため、以後1年半を関東で転戦して過ごした。
B c 尊氏・直義兄弟から深い帰依を受けた○○○○は、尊氏を勇気・慈悲・無欲の三徳を備えた前代未聞の将軍と評した。
B g ○○氏に擁立された懐良親王が勢力を強めていた九州の状況を打開するため、尊氏は1358年に九州遠征を計画したが、実現できないまま京都二条万里小路邸で死去した。
C a ○○○○は建武政権下で陸奥守に任じられ現地に下った。1335年に尊氏が建武政権から離反すると陸奥の軍勢を率いて西上し、尊氏を九州に敗走させた。1337年に再び遠征し、翌年の青野原の戦いで幕府軍を破った。
D b 尊氏ははじめ高氏と称していたが、後醍醐天皇の諱○○の一字を与えられ名を改めた。
D g 今川了俊の『難太平記』によると、足利○○は自分の命を縮める代わりに三代のうちに天下を取らせてほしいと祈って自害し、その三代目に当たるのが尊氏であったという。
E a 1336年、尊氏は建武政権との戦に敗れて九州に落ち延びたが、その途中で○○上皇の院宣を得ることにより朝敵となることを免れ勢力を回復させることができた。
F e 明治時代末に○○○○○問題が起こり南朝が正統とされると、尊氏を逆賊とする見方が国民に浸透した。
H a 1336年、後醍醐天皇に叛旗を翻した尊氏は、尊氏討伐のために派遣された新田義貞の軍を箱根○○○の戦いで破った。
I b 尊氏の正室は、鎌倉幕府最後の執権である○○○○の妹の登子である。
I f ○○○○は、足利一門のなかでも最高の家格を持ちながら尊氏に冷遇されたため、直義に味方するなどして度々尊氏に背いた。
ヨコ
a A ○○○○(円心)は播磨国の在地領主で、早くから宮方に参じて鎌倉幕府打倒に功績があったが建武政権では冷遇され、尊氏が建武政権から離反するとこれに従った。足利政権樹立に大きな役割を果たし、一族は室町幕府の有力な守護大名家となった。
a F 1336年、九州で勢いを盛り返した尊氏は湊川の戦いで新田義貞・○○○○らの軍を破って○○○○を自害に追い込み、再び入京を果たした。
b A 尊氏は1305年に足利○○の次男として生まれた。
b E 尊氏は弟の直義と幕府を二分して争ったが、元々は挙兵以来苦労を共にして幕府を築き上げた仲であり、1336年には○○○に自筆の願文を納めて現世の幸福は直義に与えて欲しいと願ったほどであった。
c D 後醍醐天皇に背いて敗れた尊氏は九州に落ち延びて再起を図り、○○○○の戦いで菊池武敏らの軍を破った。
d D 足利家の執事を務めた高師直および尊氏と、尊氏の弟である直義の間で起こった幕府を二分する争乱を○○○○○と呼ぶ。
e A 鎌倉幕府が滅亡して後醍醐天皇が帰京すると、尊氏は第一の功臣とされ○○○○○に任じられた。
e G 尊氏・直義兄弟は、1338年頃から戦死者の霊を弔うため国ごとに安国寺と○○○を設けた。
f C 1333年、後醍醐天皇が配流先の隠岐を脱出すると尊氏は鎌倉幕府の命を受けて鎮圧に向かったが、近江国の鏡宿で天皇の綸旨を受け、丹波国の○○○○○の社前で幕府打倒の兵を挙げた。
f H 1331(○○元)年に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を目指して挙兵した際には、尊氏は大仏貞直らと共に幕府軍としてこれを鎮圧した(○○の変)。
g C 足利○○は尊氏の長男だが、母親の身分が低く尊氏から子であると認められず、尊氏の弟の直義が自身の養子とした。直義の死後も九州・中国地方に独自の勢力を持ち、旧直義党と連携して一時京都を占拠するなど尊氏党と争った。
g E ○○○○は父の死後にその遺領を継ぎ、主だった武将が死去した南朝軍の畿内における主力として幕府軍と戦ったが、1348年に四条畷の戦いで高師直・師泰兄弟に敗れて自害した。
h B 尊氏の母は○○○○の娘の清子である。
h F 1336年、尊氏が再入京を果たして後醍醐天皇から光明天皇に神器が引き渡されると、その5日後に尊氏は政権の施政方針ともいえる○○○○を制定した。
i A 1335年、鎌倉幕府再興を目指す北条時行が挙兵し、足利直義を破って鎌倉を占拠すると、尊氏は後醍醐天皇の命を待たずに出陣してこれを破った。この事件を○○○の乱と呼ぶ。
i D 1333年、幕府に叛旗を翻した尊氏が○○○○○を攻略し、次いで新田義貞が鎌倉を攻め落として鎌倉幕府は滅んだ。
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