クイズで確認 知ってるつもりの日本人 ―― (59)近藤勇

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について「伝記」一冊分を読みおえたレベルの内容を“頭の運動”的な親しみやすいクイズ形式にまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1

  • タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
クイズ59
近藤勇
- クイズで近藤勇を確認しよう!
タテ
A a 新撰組は、1863年に将軍○○○○の上洛に際してその警護を担うためという名目で結成された浪士組を前身とする。
A f 庄内藩出身の志士。幕府に献策し、上洛する将軍の警護のためという名目で浪士を集めたが、京都に着くと本当の目的は尊王・倒幕であると明かした。これに反発した勇らは浪士組から分かれ、後に新撰組を結成した。
B b 斬首された勇の首は京都に送られ、○○河原に梟された。
B h 勇の諱は○○である。
C c 将軍警護という名目で結成され上洛した後分裂した浪士組のうち、京都に残留した勇らの一派は、○○○○職松平容保の支配下に置かれた。
D d 新政府に捕らわれた際、勇は○○○大和という変名を名乗っていた。
E a 1867年、新撰組参謀であった伊東甲子太郎が新撰組から離脱して結成した一派を、本拠とした寺の名から○○○党と呼ぶ。
E e 1867年12月、新撰組により11月に暗殺された伊東甲子太郎の残党に勇が狙撃され負傷するという事件があった。そのため68年1月の○○・○○の戦いでは勇に代わって副長の土方歳三が指揮を執った。
F e 勇の死から8年後、甥の○○○が勇の娘の瓊子(たまこ)に婿入りして勇の剣術流派と近藤家を継いだ。
G b 将軍警護の浪士組として上洛した勇たちは、壬生村の○○○○○宅を宿所とした。
G h 勇は剣術における心構えとして、「剣は技よりも○○だ」と常々語っていた。
H c 武蔵日野の名主。土方歳三の姉と結婚し、勇の養父である近藤周助から剣術の極意皆伝の免許を得た。勇とは義兄弟の契りを結び、新撰組を後援して日野に農兵隊を組織した。維新後は彦右衛門と改名して初代南多摩郡長を務めた。
I b 勇は江戸の○○○という道場で剣術を教えており、ここの門人たちは後に新撰組の中核メンバーとなった。
I e 新撰組二番隊組長。新撰組の壊滅後も生き残り、大正時代まで生きた。現在のJR板橋駅近くの勇の処刑場跡に勇と土方歳三の墓を建立した。
ヨコ
a A 1865年夏、壬生が手狭になってきたため、新撰組は○○○○に屯所を移した。
a E 幕臣。剣術・槍術を修め、幕府講武所の剣術教授方世話役となった。将軍警護のためという名目で結成され、勇らも参加した浪士組の浪士取扱に任じられた。「鉄舟」の号で知られる。
b B 1834年、勇は武蔵国多摩郡の農民○○○○○の三男として生まれた。
b H 1868年3月、勇は甲州○○で新政府軍と戦い敗れた。
c D 新撰組が結成されると○○○が局長となったが粗暴な行いが多く、後に勇の一派により粛清された。これにより、勇が新撰組局長に就任した。
d A 1868年、新政府軍に敗れて江戸に戻った勇は新撰組の残党を組織して○○○○○を編成し、甲州へと向かった。
d F 新撰組には、「一、○○ニ背ク間敷(まじき)事」で始まる厳しい局中法度が存在した。
e A 1867年、新撰組を離脱した伊東甲子太郎らが新撰組の襲撃を受け殺害された事件を○○○事件と呼ぶ。
f A 近藤周助の養子となった勇は、はじめ○○勝太(後に勇)と称し、1860年に近藤勇と名乗った。
f E 勇は1868年3月に甲州で新政府軍に敗れた後、下総○○で新政府軍に捕らえられた。
g B 勇は、門人であり新撰組一番隊組長も務めた○○○○を流派の後継者としたいという内容の手紙を残しているが、勇の死後まもなく彼も病死してしまったため叶わなかった。
g G 1864年、前年の八月十八日の政変で失脚していた長州藩士を中心とする尊攘派に、「京都市中に火を放ち、その混乱に乗じて朝彦親王・松平容保らの要人を襲い、天皇を長州へ連れ去る」との計画があるという情報を得た新撰組は、会合場所である○○○を襲撃して志士を殺害・捕縛した。
h B 処刑された勇の遺体(胴体)ははじめ板橋の刑場に葬られ、後に三鷹市にある○○○に改葬された。同寺には勇の銅像が建立されている。
h E 土佐藩士。大政奉還の実現のために活動しており、政治的な立場は勇と相容れなかったが、立場を超えて親交を結んだ。勇も、新撰組隊士に「土佐の○○○○○にはかならず手を出すな」と命じていた。
i B 勇が4代目宗主を務めた○○○○流は、農民の門人のなかから優秀な者を選んで養子とし、宗主を継承させるという特徴を持つ剣術流派であった。
i F 関東に入国した徳川家康は、滅亡した武田家の旧臣を中心として八王子○○○○を組織し、甲州との国境警備・江戸防衛などの任に当たらせた。そのため現在の八王子市周辺の多摩地方には佐幕思想が強く、新撰組にも勇をはじめとして多摩地方の出身者が多く加わった。
  • ヒント
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クイズ58
高杉晋作
- クイズで高杉晋作を確認しよう!
タテ
A a 晋作は1862年5月から7月にかけて藩命で上海に滞在し、○○○○の乱を見聞した。
A e 1857年、晋作は○○○○に入り、吉田松陰の教えを受けた。
B d 1859年、吉田松陰の義挙計画を暴挙であると戒めた晋作らに対し、松陰は「僕は忠義をするつもり、諸友は○○をするつもり」と反論した。
B g 1864年の第一次長州征討に際し幕府に謝罪・恭順しようとする藩内の一派を、晋作ら討幕派は○○党と呼んだ。
C d 上海から帰国した後、晋作は品川御殿山に建設中の○○○○公使館を焼き討ちした。
D a 晋作は○○○○とともに吉田松陰門下の双璧と評された。
D g 1867年4月14日、晋作は○○○のため下関で死去した。
E b 晋作が結成した奇兵隊の隊士には藩から武器と俸給が支給され、庶民出身者にも○○○○が許された。
E f 1863年、風雅の道に生きた西行とは別の道を行くとの意味を込め、晋作は剃髪して○○と号した。
F b 1864年に脱藩した晋作は、その罪で○○○に投ぜられた。
F f 1864年12月から翌年1月にかけて、晋作は伊藤博文らとともに藩内保守派に対して、山口県下関市にある曹洞宗寺院○○○で挙兵した。
G b 1860年、晋作は○○流剣術の免許皆伝を受けた。
G f 1839年、晋作は長州藩士高杉○○○の嫡子として生まれた。
H a 1864年に○○戦争(下関事件、四国連合艦隊下関砲撃事件)が起こり、長州藩の下関の砲台はことごとく破壊された。この時晋作は獄中にあったが、赦されて講和交渉の全権大使を務めた。
H c 1863年、晋作は上洛した将軍○○○○に対して野次を飛ばしたとされる。
H h 1860年、晋作は井上平右衛門の次女○○と結婚した。
I b 晋作が上海に渡った際に購入したピストルを贈られた○○○○は、寺田屋で幕府の捕吏に襲われた際にこのピストルで応戦した。
I f 1866年、晋作はイギリス商人のグラバーから蒸気船オテント号を独断で購入した。この船は○○○と改名され、第二次長州征討(四境戦争)で大いに活躍した。
ヨコ
a B 1861年、晋作は長州藩世子である○○○○(元徳)の小姓役となった。
a F 長州藩の志士。晋作とともに挙兵して藩政を掌握した。維新後、反乱を起こした奇兵隊などの諸隊を厳しく処分することに反対して下野し、萩の乱を起こして処刑された。
b A 1857年、晋作は藩校○○○に入舎した。
b F 晋作の墓所である東行庵には、伊藤博文の撰文による「動けば○○の如く、発すれば風雨の如し」で始まる晋作の顕彰碑が建っている。
c B 福岡藩士の娘として生まれ、夫と死別すると出家した。自身の山荘を勤王志士の交流の場として提供し、晋作らをかくまった。福岡藩の勤王派弾圧により流罪にされたが、晋作の指示で救出された。晋作の最期を看取り、自身もその年のうちに死去した。
d G 1863年、晋作は安政の大獄で刑死した吉田松陰の遺骨を○○○から武蔵国荏原郡若林村に改葬した。
e B 1863年、晋作は下関の豪商○○○○○の屋敷で奇兵隊を組織した。
e G 吉田松陰は門下の晋作を高く評価し、「予事を議するに○○(晋作の字)を引いてこれを断ず」と述べた。
f B 晋作は1862年5月から7月にかけて上海に滞在している間、薩摩藩士で後に実業家になった○○○○(才助)らと交友した。
g A 1866年の第二次長州征討(四境戦争)では、晋作は○○口方面指揮官および全軍の総指揮官として長州藩の指揮を執り、○○城を落城させて幕府軍に勝利した。
g G もと下関の芸妓で、晋作の愛人。晋作の死後に剃髪して梅処尼と称し、後に伊藤博文らが建立した東行庵で晋作の菩提を弔った。
h C 長州藩の志士。藩制度の解体と中央集権化の結果生まれる職を失った武士を「はなはだ邪魔もの」と考えており、奇兵隊をはじめとする諸隊が反乱を起こすと断固武力による鎮圧を主張した。
i A 1863年の八月十八日の政変で長州藩を中心とする尊攘派が京都から追放された後、長州藩では武力をもって入京を果たそうとする京都進発論が起こった。慎重論を唱える晋作は1864年に進発論者の○○○○○と激論になり脱藩した。
i F 晋作は上海での体験を『○○○○』にまとめ、帰国後に藩に提出した。
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