クイズで確認 知ってるつもりの日本人 ―― (42)宇喜多秀家

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について「伝記」一冊分を読みおえたレベルの内容を“頭の運動”的な親しみやすいクイズ形式にまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1

  • タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
クイズ42
宇喜多秀家
- クイズで宇喜多秀家を確認しよう!
タテ
A a 秀家は、○○○○の娘で秀吉の養女となっていた豪姫を正室とした。
A f ○○○○の名で知られる宇喜多詮家は、1600年の家中騒動の際に宇喜多家を去り、関ヶ原の戦いには東軍として参加した。
B c 秀家の父の直家は○○○○に仕える部将であったが後に背き、天神山城を攻略してこれを追放した。
B h 1601年、秀家は仏門に入り○○と名乗った。
C b 1606年、秀家は○○○に流罪とされ、以後死ぬまで同地で暮らした。
C e 秀吉は中国・朝鮮を征服した暁には○○の豊臣秀次を中国の○○とし、日本の○○に豊臣秀保か秀家を据え、朝鮮には織田秀信か秀家を置くという構想を持っていた。
D c ○○○○は25600石もの領地を有した大身の家臣で、1600年の宇喜多家家中騒動の中心人物の一人。騒動を起こした後は徳川家康の所領である岩槻に配流とされ、関ヶ原の戦いの際には東軍として参加した。
E f 1598年、豊臣秀吉は死の直前に、秀家を含む5人の有力大名と5人の吏僚(いわゆる「○○○」「五奉行」)により政権を運営するよう遺言した。
F b 宇喜多○○は備前守護代に仕えて武将として活躍したが1534年に島村豊後に居城を攻められて自害し、これにより宇喜多氏は一旦没落した。
G a 秀家は豊臣政権下で若くして異例の出世を遂げ、1594年には従三位○○○○の官位を授けられた。
G e 1579年に秀家の父の直家が毛利氏から織田氏に寝返ったため、以後宇喜多氏は毛利氏と争うこととなり、1582年に直家が死去した直後の○○合戦では大敗を喫した。
G h 秀家は35歳で流罪とされてから○○の世まで同地で過ごし、1655(○○元)年に84歳で死去した。
H c 明治時代となった後に宇喜多家はようやく赦され、1872年に政府から○○区の土地約2万坪と1500円を与えられた。
H e 関ヶ原の戦いは、○○○○・松平忠吉の部隊が宇喜多隊に攻めかかったのをきっかけに戦端が開かれた。
I b 1593年、文禄の役における○○○の戦いで秀家を総大将とする日本軍は明軍を破り、これを機に講和の機運が高まった。
I e 関ヶ原の戦い後、没収された秀家の旧領には○○○○○が新しい領主として入った。
ヨコ
a A 1600年、宇喜多家中の対立の結果、奉行人であった○○○○○○が襲撃され、これに加わった多くの重臣が宇喜多家を去るという家中騒動が起こった。
a G 秀家は父・直家と母・○○○の間に1572年に生まれた。
b B 1600年、徳川家康に対して挙兵した西軍は○○○○が守る伏見城を攻撃し、秀家もこれに加わった。
b H 秀家は領主として○○城を修築し、城下町を整備した。
c E 関ヶ原の戦いで敗れた後潜伏を続けていた秀家は、1601年に○○氏を頼って薩摩に入った。
d E 秀吉は秀家の姉を自らの養女とした上で○○○○に嫁がせ縁戚関係を結んだ。
e A 秀家は早島から倉敷にかけて堤防を築き、○○湾干拓の先蹤をなした。
e C 豊臣秀吉の死後権勢を強める徳川家康に対して、これに反発する諸大名は○○○○を総大将として1600年に挙兵し、秀家もこれに加わった。
f F 秀家の正室の実家である○○藩は、秀家が流罪とされて後、明治に至るまで宇喜多家に仕送りをして生活を支え続けた。
g A 関ヶ原の戦いにおいて宇喜多隊は東軍の○○○○の部隊と交戦し、一時は退却にまで追い込んだ。
g F 1588年に○○○天皇が聚楽第に行幸した翌日、諸大名が秀吉への忠誠を誓った起請文において、秀家は織田信雄・徳川家康らと共に、他の大名と身分差のある6人の重臣と位置付けられた。
h C 毛利氏から織田氏に寝返った宇喜多氏は、中国方面の攻略を担う羽柴秀吉に従い、○○○○城の攻撃に一万余の将兵を供出するなどして貢献した。
i B 1599年に○○○○が加藤清正・黒田長政ら七将に襲撃される事件が起きた際に、○○○○は一時秀家の屋敷に匿われた。
i F 1600年の宇喜多家の家中騒動の発端となる襲撃事件を起こした首謀者は○○○○のもとを訪れて庇護を求め、○○○○がこの事件を調停することとなった。
  • ヒント
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クイズ41
足利義昭
- クイズで足利義昭を確認しよう!
タテ
A a 義昭は僧侶時代には○○という法号を名乗っていた。
A d 1572年に信長が義昭に対し、朝廷への奉公が足りないこと、信長の副状なく○○○を発給したことなどを非難した十七ヵ条の異見書を提出したことにより両者の関係は決定的に悪化した。
A g 信長の力で上洛を果たした義昭は信長に対して幕府の管領か○○○への就任を要請したが、信長はこれを辞退した。
B b 信長に降伏した義昭は顕如の仲介により○○○○の居城である河内国の若江城に移った。
C d 政治的な動きを始めた義昭に対して、信長は1569年に「○○の掟」を定めてこれを規制した。
D c ○○○○ははじめ義昭に仕え、義昭が信長に擁立された際にその工作を務めた。以後義昭・信長の両者に仕えたが、次第に信長の家臣としての性格を強め、義昭が追放された後も信長に従った。
E a 1566年に義昭は越前国に居を移し、信長に擁立されるまでの2年近くを越前の戦国大名である○○○○の庇護を受けて過ごした。
E g 1568年、義昭は○○○城で元服した。
F f 有力な大名に擁立されて上洛し、将軍に就任することを目指す義昭は各地の大名に書状を送って働きかけたが、なかでも○○○○に宛てたものが圧倒的に多く、最も頼りにしていたことが窺える。
G b 義昭は三好氏によって殺害された兄に代わって将軍への就任を目指したが、三好氏に擁立された足利○○が義昭よりも先に十四代将軍に就任した。
G e 1587年、義昭は秀吉に恭順の意を示して帰京を許され、1万石を与えられて山城国○○で余生を送った。
H b 1568年、義昭は信長に擁されて上洛を果たし、念願であった○○○○○(将軍)に就任した。
H g 1573年、義昭は信長に対して挙兵したが敗れ、2歳の長男(後の興福寺大乗院門跡○○)を人質に出して降伏した。
I a 1568年、義昭を擁した信長は大軍を率いて岐阜を出発し、南近江の○○○○(承禎)を破って上洛を果たした。
I e 義昭は6歳で興福寺○○○門跡に入室し、僧として育った。
ヨコ
a A 三好氏による幽閉状態から脱出した義昭は、幕臣である○○○○の館に入った。
a F 1588年、義昭は出家して○○○○と号した。
b C 義昭は室町幕府十二代将軍の足利義晴と○○○○の娘の間に1537年に生まれた。
c A 文禄の役の際には、義昭も秀吉が朝鮮出兵の前線基地とした肥前○○○に従軍した。
c F 1576年、義昭は○○氏を頼って備後の鞆に移った。
d F 1569年、信長が京都を離れた隙に三好氏の軍勢が京都に入り、義昭が仮御所としていた○○○を襲撃するという事件が起きた(○○○の変)。
e C 1565年に義昭の兄である十三代将軍足利○○が三好氏の軍勢に御所を襲撃されて殺害されるという事件が起き、義昭も三好氏により幽閉された。
e E ○○○門主の顕如と信長が対立した際、義昭ははじめ両者を調停しようとしたが、この調停が成立する前に信長が義昭に異見書を提出したことにより義昭自身と信長の関係が急激に悪化した。
f A 信長に降伏した義昭は、山城国枇杷荘に向かう際に落ち武者狩りに遭い身ぐるみをはがされた上に、○○○○と罵られるようなありさまであった。
f E 義昭は還俗した当初は○○と名乗っていたが、元服した際に義昭と改名した。
g A 三好長慶の死後に三好政権を支えた3人の重臣を○○○○○と呼ぶ。義昭を擁した信長に敗れ、その後も義昭の仮御所を襲撃するなど抵抗を続けたが次第に勢力は衰えた。
g F ○○○○は信長に抜擢されて摂津一国の支配を任されたが、後に義昭らの説得により信長に背いた。
h B ○○○○(幽斎)は、三好氏に幽閉されていた義昭を救出し、その上洛を実現するために尽力した。義昭が信長に追放された後は信長の家臣となった。一説に足利義晴の落胤とされ、仮に事実とすれば義昭の兄に当たる。
h G 1573年11月、義昭は堺から紀伊国由良の臨済宗寺院である○○○に移り、2年余りをここで過ごした。
i A 義昭は反信長勢力を糾合して包囲網を形成したが、軍事的な中心であった○○○○は西上を開始して信長の同盟者・徳川家康を破ったものの、病状が悪化して帰国する途中で死去した。
i F 信長に仕えた筆頭格の吏僚である○○○○と島田秀満は義昭を招聘する際の迎えの使者を務め、信長が義昭のために二条御所を建設した際の工事奉行にも任じられた。
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