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日本人

クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(25)伊達政宗 ―

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1
  • 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。

(25)伊達政宗の解答

タテ

A

b

輝宗の小姓から政宗の傅役となって常に政宗に近侍し、天下の陪臣と称された。小十郎の通称で知られる。

A

f

伊達氏の分国法は、1536年に伊達稙宗が定めた○○○である。

B

a

「政宗」という名は、文武に優れ伊達家中興の祖と評された九代目当主の○○○○政宗と同名であり、元服の際に父の輝宗が期待を込めて名乗らせたものである。

C

c

関ヶ原の戦いの直前に政宗は徳川家康から49万石余を与える約束を得ていたが、和賀忠親が○○○○の領地で起こした和賀一揆を支援していたことが露見して約束を反故にされ、刈田郡のみを与えられた。

D

f

政宗が大坂夏の陣において、退却中の○○○○を味方であるにもかかわらず攻撃して討ち取ったという「伊達の味方討ち」の逸話が伝わっている。

E

a

伊達秀宗は政宗の庶長子で、別家を立てて○○○藩の初代藩主となった。

F

g

1589年、政宗は○○○の戦いで蘆名義広を破り蘆名氏を滅ぼした。

G

a

伊達○○は政宗の次男で、政宗の跡を継いで仙台藩第二代藩主となった。

G

c

○○○○は政宗の母の兄であり、政宗から見て伯父に当たるが、大崎・蘆名・佐竹氏と政宗包囲網を展開するなど、政宗とは激しく争った。

H

b

政宗は豊臣秀吉の許に参陣しようとした際に、弟の○○○を当主にしようとする母によって毒殺されかけ、自らの手で○○○を殺害したとされる。

H

f

1591年、政宗は豊臣秀吉から一揆を煽動した疑いを持たれ、赦されはしたが減転封され、○○○城に居城を移した。

I

a

1590年、政宗は北条氏の○○○城を包囲中の豊臣秀吉のもとに参陣し、臣従した。

I

e

徳川氏が豊臣氏を滅ぼした大坂の役に政宗は徳川方として参陣し、夏の陣では配下の片倉隊が○○○○(又兵衛)を討ち取る功を挙げた。

I

h

伊達氏の一門である○○は、武勇に優れ、多くの合戦で功があり政宗に重用された。『○○記』(『政宗記』)という政宗の一代記を著した。

ヨコ

a

A

与市、六右衛門、長経とも称した。政宗によりスペイン・イタリアに使節として派遣され(慶長遣欧使節)、スペイン国王とローマ教皇に政宗の書状を奉呈した。

a

F

1585年、政宗は大内氏の○○○城を攻め落とし、男女800人のほか牛馬まで撫で斬りにしたとされる。

b

C

政宗の正室の愛姫は、三春城主・○○○○の娘である。

c

D

政宗の幼名。

c

H

伊達氏の本姓は○○氏である。

d

D

伊達氏は政宗の祖父・晴宗の代に陸奥国の行政を担う○○○○の職に補任され、政宗の父・輝宗も自称したとされる。

e

A

1585年、佐竹義重を盟主とする佐竹氏・蘆名氏・相馬氏などの連合軍と政宗が率いる伊達軍との間に○○○の戦いが起きた。伊達軍は敗色濃厚となったが、佐竹軍に本国の危機が伝えられて急遽帰国したため辛うじて危地を脱した。

e

D

○○○○○(姓は畠山とも)は政宗への降伏を政宗の父・輝宗に仲介してもらったことへの礼のため輝宗を訪問したが、帰り際に突如輝宗を拉致して逃走した。政宗の軍勢に追いつかれ、輝宗ともども射殺されたとも、輝宗を刺殺して自害したとも伝わる。

f

A

政宗は1567年に伊達輝宗の長男として○○城で生まれた。

f

D

スペイン人宣教師のルイス・○○○は政宗の知遇を得て布教活動を行い、1613年にキリシタン弾圧で死刑を宣告された際には、政宗の嘆願により許された。政宗の使節としてローマなどに赴いた(慶長遣欧使節)。

f

H

1589年、政宗は蘆名氏を滅ぼして居城を○○城に移した。

g

B

政宗は幼い頃に右目を失明したことから○○○と通称される。

g

E

政宗は豊臣秀吉の死後徳川家康に接近し、長女の○○○(天麟院)を家康の六男の松平忠輝と婚姻させた。

h

B

1600年の関ヶ原の戦いは東北地方にも波及し、最上領に○○○○配下の直江兼続の軍が侵攻した。東軍に属した政宗は最上氏に援軍を送り、最上氏とともに直江軍を退けた。

h

G

政宗は江戸幕府から警戒されるのを避けるため仙台城に○○○を設けなかったとされる。

i

A

1590年、豊臣秀吉により所領を没収された○○○○と葛西晴信の旧領で一揆が起こった。政宗はこの一揆を鎮圧したが、煽動を疑われて本領を没収され、かわりに○○氏・葛西氏の旧領を与えられた。

i

E

小高城を居城とした陸奥国南部の戦国大名。伊達氏と激しい抗争を繰り返して独立を維持し、豊臣秀吉から本領を安堵されることにより滅亡の危機を脱した。

ヒント

解答

(24)北条早雲の解答

タテ

A

a

早雲は、1476年に駿河守護の○○○○が戦死したことにより生じた家督問題を調停した。

A

f

1504年、早雲は今川氏親とともに扇谷○○○○を支援して、立川原の戦いで上杉顕定を破った。

B

d

関東の出身ではない早雲の一族は、子の代になっても上杉朝興から「○○○○○」と呼ばれていた。北条への改姓には、こうした批判に対して、鎌倉幕府執権北条氏の姓を称することで関東支配の正当性を主張する意図があったと考えられる。

C

d

早雲は軍記物語の『○○○』を愛読していたとされる。

C

g

早雲は一時期京都の○○○で春浦宗煕に従い禅の修行を積んだ。

D

a

1491年、早雲は堀越公方足利政知死後の混乱に乗じて伊豆国に攻め入り、政知の遺児である足利○○○を打倒して伊豆を平定した。

D

f

扇谷上杉氏の家臣であった○○○○が早雲に寝返るなど、反上杉勢力が次々に兵を挙げると、危機に陥った扇谷・山内の両上杉氏は同盟を結んで早雲に抵抗した。

E

e

早雲が家督を譲った1518年から、有名な北条氏の「○○○○」が用いられ始めた。

F

a

「早雲寺殿○○○○」は、早雲が制定したとされる家訓である。

F

f

今川家の客将となった早雲は、富士下方十二郷を与えられるまでは○○城を居城としていたと推測される。

G

e

早雲は、入道してからは「早雲庵○○」と号した。

H

c

早雲ははじめ○○○○に仕え、1467年の伊勢下向に従ったとされる。

I

a

かつて早雲は一介の素浪人の出身であると考えられていたが、研究の進展により今日では室町幕府○○○○を務めた伊勢氏の一族であることが確実視されている。

I

f

古河公方○○○○は、扇谷・山内の両上杉氏と結んで早雲に対抗しようとし、これに反対する嫡子の高基と対立した。一度は和解したものの、早雲の策により再び対立し、敗れて古河城を失った。

ヨコ

a

B

1495年、早雲は○○○○から相模の小田原城を奪い、関東進出の第一歩とした。

a

F

今川家の部将としての早雲の活動は三河にまで及び、安祥城主の○○○○と争った。

b

B

扇谷上杉定正から派遣された○○○○は、早雲とともに中心となって今川家の家督問題を調停した。

b

G

今川家の家督問題に際して、早雲は○○○(後の今川氏親)を支持して内紛を収集した。

c

A

1487年、早雲は、内紛を収集して氏親に今川家の家督を継がせた功績により富士下方十二郷を与えられ○○○城の城主となった。

c

E

早雲は京都の医者・陳定治を小田原に招いて○○○(外郎、ういろう)という薬の製造・販売を行わせ、外郎は小田原名物となった。

d

D

かつては早雲の出自は一介の素浪人であったと信じられており、美濃の○○○○と並んで下剋上の典型と考えられていた。

e

A

1510年頃から相模への侵攻を開始した早雲は○○○○(義同)と激しく争い、12年に岡崎城、16年に新井城を攻め落としてこれを滅ぼし相模を平定した。

e

F

早雲の事績として、戦国大名ではじめて領内で○○を行ったことが特筆される。

e

H

早雲は、入道してからは「早雲庵○○」と号した。今川氏に嫁いでいた姉妹の○○殿の縁を頼って駿河に下向した。

f

E

伊豆を平定した早雲は○○に城を築いて居城とした。

g

F

早雲に始まる北条氏は、鎌倉幕府執権の北条氏と区別するため○○○氏とも呼ばれる。

h

F

○○○○の職を継承した有力大名である上杉氏は、山内・扇谷両家の対立などにより衰退して北条氏の関東進出を許した。両家は後に和睦して北条氏に対抗したが、敗れて関東を追われた。

i

A

1518年に、早雲は子の○○に家督を譲ったとみられる。

i

C

早雲は、今川氏親が成人するまで○○○○が家督を代行するとの条件で今川家の家督問題を調停した。しかし○○○○はこの条件を守らず、11年後に早雲らによって討たれた。

i

G

早雲は通称を○○○といい、諱は長氏・氏茂などと伝わる。

ヒント

解答