クイズで確認 知ってるつもりの日本人 ―― (58)高杉晋作

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について「伝記」一冊分を読みおえたレベルの内容を“頭の運動”的な親しみやすいクイズ形式にまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1

  • タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
クイズ58
高杉晋作
- クイズで高杉晋作を確認しよう!
タテ
A a 晋作は1862年5月から7月にかけて藩命で上海に滞在し、○○○○の乱を見聞した。
A e 1857年、晋作は○○○○に入り、吉田松陰の教えを受けた。
B d 1859年、吉田松陰の義挙計画を暴挙であると戒めた晋作らに対し、松陰は「僕は忠義をするつもり、諸友は○○をするつもり」と反論した。
B g 1864年の第一次長州征討に際し幕府に謝罪・恭順しようとする藩内の一派を、晋作ら討幕派は○○党と呼んだ。
C d 上海から帰国した後、晋作は品川御殿山に建設中の○○○○公使館を焼き討ちした。
D a 晋作は○○○○とともに吉田松陰門下の双璧と評された。
D g 1867年4月14日、晋作は○○○のため下関で死去した。
E b 晋作が結成した奇兵隊の隊士には藩から武器と俸給が支給され、庶民出身者にも○○○○が許された。
E f 1863年、風雅の道に生きた西行とは別の道を行くとの意味を込め、晋作は剃髪して○○と号した。
F b 1864年に脱藩した晋作は、その罪で○○○に投ぜられた。
F f 1864年12月から翌年1月にかけて、晋作は伊藤博文らとともに藩内保守派に対して、山口県下関市にある曹洞宗寺院○○○で挙兵した。
G b 1860年、晋作は○○流剣術の免許皆伝を受けた。
G f 1839年、晋作は長州藩士高杉○○○の嫡子として生まれた。
H a 1864年に○○戦争(下関事件、四国連合艦隊下関砲撃事件)が起こり、長州藩の下関の砲台はことごとく破壊された。この時晋作は獄中にあったが、赦されて講和交渉の全権大使を務めた。
H c 1863年、晋作は上洛した将軍○○○○に対して野次を飛ばしたとされる。
H h 1860年、晋作は井上平右衛門の次女○○と結婚した。
I b 晋作が上海に渡った際に購入したピストルを贈られた○○○○は、寺田屋で幕府の捕吏に襲われた際にこのピストルで応戦した。
I f 1866年、晋作はイギリス商人のグラバーから蒸気船オテント号を独断で購入した。この船は○○○と改名され、第二次長州征討(四境戦争)で大いに活躍した。
ヨコ
a B 1861年、晋作は長州藩世子である○○○○(元徳)の小姓役となった。
a F 長州藩の志士。晋作とともに挙兵して藩政を掌握した。維新後、反乱を起こした奇兵隊などの諸隊を厳しく処分することに反対して下野し、萩の乱を起こして処刑された。
b A 1857年、晋作は藩校○○○に入舎した。
b F 晋作の墓所である東行庵には、伊藤博文の撰文による「動けば○○の如く、発すれば風雨の如し」で始まる晋作の顕彰碑が建っている。
c B 福岡藩士の娘として生まれ、夫と死別すると出家した。自身の山荘を勤王志士の交流の場として提供し、晋作らをかくまった。福岡藩の勤王派弾圧により流罪にされたが、晋作の指示で救出された。晋作の最期を看取り、自身もその年のうちに死去した。
d G 1863年、晋作は安政の大獄で刑死した吉田松陰の遺骨を○○○から武蔵国荏原郡若林村に改葬した。
e B 1863年、晋作は下関の豪商○○○○○の屋敷で奇兵隊を組織した。
e G 吉田松陰は門下の晋作を高く評価し、「予事を議するに○○(晋作の字)を引いてこれを断ず」と述べた。
f B 晋作は1862年5月から7月にかけて上海に滞在している間、薩摩藩士で後に実業家になった○○○○(才助)らと交友した。
g A 1866年の第二次長州征討(四境戦争)では、晋作は○○口方面指揮官および全軍の総指揮官として長州藩の指揮を執り、○○城を落城させて幕府軍に勝利した。
g G もと下関の芸妓で、晋作の愛人。晋作の死後に剃髪して梅処尼と称し、後に伊藤博文らが建立した東行庵で晋作の菩提を弔った。
h C 長州藩の志士。藩制度の解体と中央集権化の結果生まれる職を失った武士を「はなはだ邪魔もの」と考えており、奇兵隊をはじめとする諸隊が反乱を起こすと断固武力による鎮圧を主張した。
i A 1863年の八月十八日の政変で長州藩を中心とする尊攘派が京都から追放された後、長州藩では武力をもって入京を果たそうとする京都進発論が起こった。慎重論を唱える晋作は1864年に進発論者の○○○○○と激論になり脱藩した。
i F 晋作は上海での体験を『○○○○』にまとめ、帰国後に藩に提出した。
  • ヒント
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クイズ57
西郷隆盛
- クイズで西郷隆盛を確認しよう!
タテ
A a 初代鹿児島県令。異例ともいえる地元出身の県令であり、政府に対して半独立的な態度を取り、その県政の下で鹿児島県は西郷派士族による独立国のようになった。西南戦争では県の公金を軍資金として提供するなど西郷軍を積極的に支援したため、官位を剥奪され処刑された。
A f 1871年11月から73年9月にかけて、○○○○を特命全権大使とする使節団が欧米諸国を歴訪している間、隆盛は筆頭参議として留守政府を主導した。
B d 外交的緊張が高まっていた朝鮮に対して隆盛は自ら特使として交渉に赴くことを提案したが、岩倉具視・大久保利通らは出兵に至ることを危惧してこれに反対し、論争に敗れた隆盛をはじめとする参議は辞職した。この事件を、当時の年号から○○○○の政変と呼ぶ。
B h 武力討幕を目指す隆盛の指示により、幕府への挑発を目的として江戸市中で辻斬り・強盗・火付けなどが繰り返された。これらの擾乱行為は江戸市中取り締まりにあたっていた○○藩の屯所への発砲事件にまで至り、ついに幕府は三田の薩摩藩邸の焼き討ちを決行した。
C a 最大・最後の士族反乱であった隆盛の反乱が鎮圧されると、反政府運動の中心は武力による反乱から、言論により民主主義の実現を訴える○○○○運動へと移っていった。
C f 長州藩の志士。隆盛との間に薩長同盟を結び、討幕運動を推し進めた。西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」に数えられる。西南戦争の最中に病没した。病床で「西郷もまた大抵にせんか」と怒鳴ったという逸話がある。
D d 隆盛は農政改革を求める意見書を提出したことにより藩主の○○○○に見出され、その片腕として活動した。
E a 明治維新後、隆盛は2000石の○○○(維新の功臣に対して政府から与えられた恩典)を与えられた。
E g 1874年に隆盛が職を辞して下野すると、これに従い辞職・帰郷する薩摩出身の軍人や文官が数百人に及んだ。隆盛は彼らを指導・統御するため○○○を設けた。
F c 隆盛は号を止水、のち○○と称した。
F f ○○○○は、はじめ中村半次郎と名乗り、人斬り半次郎の通称で知られた。隆盛のもとで尊攘派として活動し、戊辰戦争では会津若松攻めの軍監を務めた。西郷が下野した際にこれに従い、西南戦争で西郷軍の総指揮をとり戦死した。
G a ○○○の戦いは、西南戦争における最大の激戦。1877年3月4日から攻撃を開始した政府軍は、3000名を超える死傷者を出しながらも同月20日、遂に西郷軍の陣地を突破した。この戦いにより西南戦争の帰趨が決した。
H b 幕臣。戊辰戦争に於いて江戸が新政府軍に包囲された際に、新政府側の隆盛と会談し、江戸城の無血開城を実現させた。
H e 三菱財閥の創設者。大久保利通・大隈重信など政界人と結び、西南戦争をはじめとする内乱鎮圧のための政府の軍需輸送を独占して巨利を得た。
I b 土佐藩の志士。隆盛らとの間に薩土盟約を結んだ。維新後、征韓論争に敗れて隆盛らとともに下野し、高島炭坑の経営に携わるなどした。後に政府に復帰するが、帝国議会において財界との癒着を攻撃され、農商務大臣を辞任した。
I g 地球の外側を公転している惑星。西南戦争後に隆盛の霊と考えられ、「西郷星」と呼ばれた。
ヨコ
a A 隆盛は藩主の意を受けて一橋慶喜を将軍継嗣に擁立する運動を行っていたが、1858年、将軍継嗣として徳川慶福を推す井伊直弼が幕府大老に就任すると、薩摩藩は幕府をはばかり、隆盛に○○○○という変名を名乗らせ、奄美大島に潜居させた。
a F 1862年、隆盛は京坂にいる尊攘激派を慰撫するため、島津久光の命令を無視して独断で京坂に向かった。このため久光の怒りを買い、罪人として徳之島、ついで○○○○島に流されることとなった。
b B 1868年、戊辰戦争に際して隆盛は○○○○○府参謀に就任し、新政府軍を率いた。
b H 西郷○○は隆盛の弟。尊攘派の志士として活動し、維新後は政府に出仕した。隆盛が大久保利通らと対立して下野した際に兄と袂を分かち政府に残った。通算10年にわたり海軍大臣に在任し、海軍の整備に努めた。
c B 1898年、東京の上野公園に○○○○作の隆盛の銅像が建てられた。
d E 隆盛は1827年、薩摩国鹿児島城下の○○○○町に生まれた。
e A 江戸幕府が倒壊していくのと時期を合わせて、東海・近畿地方を中心とした地域で起こった熱狂的乱舞をともなう民衆運動。神符(御札)が天から降ったことをきっかけとして始まったとされるが、倒幕派の政治工作の存在も指摘されている。
f A 井伊直弼が大老に就任して安政の大獄が始まると、幕府の追及に窮した隆盛は同志の僧○○とともに鹿児島湾に身を投げ入水自殺を図った。僧はそのまま死亡したが、隆盛は命を取り留めた。
f C 隆盛が西南戦争に敗れて死亡した後もその生存説が囁かれ続け、なかでも1891年に○○○の皇太子が来日した際には、皇太子一行とともに隆盛が日本に帰ってくるという噂話が流布した。
f F ○○○は薩摩出身の志士・軍人で、隆盛の従兄弟にあたる。西南戦争には政府軍の別働第一旅団司令長官として参加した。初代陸軍大臣となり、陸軍の重職を長期間務めた。
g E 西郷○○○は、隆盛が奄美大島に潜居していた際に島民の愛加那(あいがな)との間にもうけた子。西南戦争で父に従って転戦し、片足を失った。1904年に京都市長に就任した。
h C 陸軍大将として日露戦争で旅順攻略を指揮し、後に明治天皇に殉死したことで知られる○○○○は、西南戦争に政府軍の歩兵連隊長として参加した際に西郷軍に軍旗を奪われたため自決を決意したが思いとどまった。
h G 1867年の○○○会議は、徳川慶喜の処分に反対する山内容堂・松平春嶽らと討幕派の岩倉具視・大久保利通らが激しく対立して紛糾したが、休憩中に隆盛が「短刀一本で片付く」と語ったことが伝わると容堂・春嶽は抵抗をやめ、慶喜に辞官納地を命じることが決定された。
i C 西南戦争の戦費調達のために薩摩軍が発行した紙幣。信用が薄く、薩摩軍の敗北により完全に価値を失った。
i G 1876年に布告された○○○(帯刀禁止令)は士族の不満を高め、後の士族反乱の一因となった。
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