クイズで確認 知ってるつもりの日本人 ―― (48)徳川家光

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について「伝記」一冊分を読みおえたレベルの内容を“頭の運動”的な親しみやすいクイズ形式にまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1

  • タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
クイズ48
徳川家光
- クイズで徳川家光を確認しよう!
タテ
A a 徳川家康の死後、秀忠により家康を祀る○○○○○が創建されたが、家光は1634年からこれに更に大規模な造営を加え、今日に残る荘厳な社殿が築かれた。
A f ○○○○は、母である春日局が家光の乳母となった縁により幼い頃から家光に仕え、後に幕府の老中となった。
B b 家光は、祖父家康と同じ○○○という幼名をつけられた。
C b 1641年、幕府はオランダ商館を長崎の○○に移し、鎖国体制が完成した。
D f 1651年に家光が死去すると、長男の○○がわずか11歳で将軍職を継いだ。
E a 家光は柳生宗矩を兵法師範として剣術を学び、○○流兵法の印可を授けられた。
E f 1637年、○○○○(益田時貞)という少年を盟主として、キリシタンの農民による大規模な一揆が起こった(島原の乱)。この乱により、幕府はキリシタン禁圧と鎖国政策をより強く推し進めることとなった。
F e 家光は関白○○○○の娘を正室とし、以後歴代将軍は皇族や上級公家から正室を迎えた。
G b 1623年、家光に将軍職を譲った徳川秀忠は○○○と呼ばれ、将軍家光との間で二元政治が行われた。32年に秀忠が死去したことによりこの状態は解消された。
G g 五代将軍の徳川○○は家光の四男である。
H c 1635年、幕府は○○○○を制度化し、諸大名は定期的に江戸に出仕することを義務付けられた。
H g 家光の妹の和子は○○○天皇の中宮となった。○○○天皇は、「禁中並公家諸法度」の制定などの朝廷に対する幕府の抑圧政策を不満とし、興子内親王(明正天皇)に譲位した。
I a 1635年、幕府は○○○○○を大幅に改定した(寛永令)。
I f 家光は臨済宗の僧○○○○に帰依し、これを開山として東海寺を創建した。
ヨコ
a A 1651年に家光が死去すると、これを好機とみた軍学者○○○○を首謀者とする叛乱計画が立てられた(慶安事件)。叛乱は未然に阻止されたが、事件は幕府に衝撃を与えた。
a F 家光は祖父の家康を強く敬愛しており、晩年にはしばしば夢に見た家康の像を○○○○に描かせた。
b C 譜代大名の○○○○は酒井忠世・土井利勝とともに家光の補導役となり、家光の人格形成に影響を与えた。後に、家光を公衆の面前で叱正したため減転封され、後に蟄居した。
b H 家光は徳川秀忠の次男だが、兄の○○が早世したため実質的に長男として扱われた。
c D ○○○○は、幼い頃から小姓として家光に近侍した。後に老中となり、島原の乱を鎮圧した。幕藩体制の確立に尽力し、家光の死後は幕閣の頂点に立った。
d B 1639年、幕府は鎖国政策の一環として○○○○○船の来航を禁止した。
e B 寛永の大飢饉による農民の没落を防ぐため、幕府は1643年に○○○○○○の禁令を出した。
f B 家光の母は、北近江の戦国大名○○○○の三女の崇源院(江、江与)である。
f G 家光の弟の国松(後の徳川○○)は才能に恵まれて父母に愛され、幕府内外から秀忠の後継者とみなされていたが、春日局の直訴を受けた家康の裁定により家光が後継者とされた。○○は秀忠の死後に自害を命じられた。
g B 家康の代から行われていた朱印船貿易が鎖国により終焉を迎える前の最終段階として、幕府は朱印状に加えて幕府老中の許可証を持つ○○○と呼ばれる貿易船のみに海外渡航を制限した。
g G 初代の家康から三代家光までの○○政治に対し、家光の死後、幕政の基調は文治政治へと転換していった。
h B 明智光秀の重臣である○○○○の娘のお福(後の春日局)は家光の乳母となり、家光の将軍就任に大きな役割を果たした。
i A 家光の死後、その治世を支えた幕閣たちの死去により幕府の実権は「下馬将軍」と称された○○○○へと移っていった。
i F 家光の異母弟。高遠藩3万石、山形藩20万石を経て会津藩23万石を与えられた。家光の死後は幕政に参与し、政権を安定させた。
  • ヒント
※画像をクリックで拡大します。
クイズ47
源頼朝
- クイズで源頼朝を確認しよう!
タテ
A a 1180年、頼朝は伊豆国目代を殺害して軍事行動を開始したが、直後の○○○の戦いで大庭景親ら平氏方の軍に大敗した。
A e ○○○○は頼朝の圧力に屈して平泉に身を寄せていた義経を襲い、その首を頼朝に差し出したが赦されず、頼朝の大軍に攻められ滅ぼされた。
B a 1180年、鎌倉に入った頼朝は源氏の氏神である○○○○○を現在地に移し、鎌倉の中心に据えた。○○○○○は幕府の公的行事の場とされ、鎌倉御家人の精神的支柱となった。
B g 頼朝は後白河天皇の皇子である○○○が発した令旨を旗印として東国の武士を糾合した。
C b 頼朝の叔父の源○○は頼朝の挙兵後に独自の行動をとり墨股川で平氏軍と戦ったが敗れ、頼朝に所領を請うたが拒否された。義経と頼朝が対立した際には義経と結んで頼朝に対抗したが捕らえられて斬られた。
C e 後白河法皇が義経に頼朝追討の宣旨を出すと、頼朝は東国の大軍を派遣して威圧し、法皇に対して政治的要求を承認させた。その一つは義経捜索の名目で○○・○○を設置することであった。
E a 1160年、東国に落ち延びようとした頼朝は途中で父義朝の一行とはぐれ、美濃で○○○の郎等平宗清に捕らわれて京都に送られた。
E f ○○○○ははじめ朝廷の中堅官僚であったが、鎌倉に下向して頼朝に仕え、初代政所別当などを務めたほか、しばしば京・鎌倉を往復して朝幕間の折衝に当たった。
G a 1190年、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は上洛して後白河法皇と対面し権大納言・○○○○○に任じられたが、まもなく両官を辞して鎌倉に帰った。
G h 1180年、頼朝は御家人統率機関として○○を設置し、和田義盛を初代別当に任じた。
H b 1195年、頼朝は○○○再建供養への出席を名目として上洛し、後宮の実力者である丹後局としばしば会談した。これは長女を後鳥羽天皇に入内させるための交渉であったと考えられている。
H e 1180年、○○○西岸に布陣した平維盛の軍は水鳥の羽音を敵襲と誤認して総崩れとなり敗走したとされる(○○○の戦い)。『吾妻鏡』には甲斐源氏も頼朝の指揮下にあったように書かれているが、近年では甲斐源氏が戦いの主体であったと考えられている。
I b 頼朝は御家人○○○○が亡妻の追福のために相模川に架けた橋の落成供養に出席した帰りに落馬したのがもとで死去したとされる。
I g 頼朝は長女の○○を後鳥羽天皇に入内させようとしたが、源通親や丹後局らにつけ込まれて政治工作に利用され、親幕府派の公卿の失脚を招く結果となり、○○も1197年に死去した。
ヨコ
a A ○○○○は頼朝の支持を受けて摂政(後に関白)となり、後白河法皇の死後は頼朝との強固な協力関係により朝廷の政治を主導したが、1196年の政変で失脚した。
a E 平家が滅亡するとその所領は朝廷に没収され(これを○○○○○と呼ぶ)、後にその大部分が頼朝に与えられて幕府の経済的基盤となった。
b C 1180年に挙兵した頼朝は、はじめに伊豆国目代の○○○○の館を襲撃し、これを討ち取った。
c D 平氏に捕らえられた頼朝が斬罪とされず一命を助けられたのは、平清盛の義母である○○○の助命嘆願によるとの説が有力である。
c H 頼朝の母は○○大宮司藤原季範の娘である。
d A 1183年のいわゆる「○○○○○○宣旨」により頼朝は朝廷から正式に東国の支配権を承認された。この宣旨の歴史的意義をめぐっては、東国政権成立の画期として高く評価する見解と、朝廷の承認を得たことを権力の後退とする見解とが存在し、研究者の間で評価が分かれている。
e D 頼朝が挙兵した際に平氏方の大庭景親に属したが、敗れた頼朝に内応してその危機を救った人物。以後頼朝の信任を得て側近となり権勢を誇ったが、頼朝の死後に他の御家人の弾劾を受けて失脚した。
f A ○○(俗名遠藤盛遠)は1173年に後白河法皇に神護寺への荘園寄進を強請して伊豆に流され、配流中の頼朝と出会った。80年には法皇の院宣を仲介して頼朝に平氏に対する挙兵を促した。
f D 頼朝は伊豆に配流されている間に在地豪族の北条時政の娘○○と結婚した。
f F ○○○○は母が頼朝の乳母の妹であった関係で、伊豆に配流された頼朝に京都の情報を送っていたとされる。幕府成立後は京下りの文官として頼朝の側近となり、初代問注所執事を務めた。
g D 1184年に義経が頼朝の許可を得ずに○○○○・左衛門少尉に任じられたことが両者の不和の一因となった。
h B 頼朝が1193年に挙行した○○○○○は、武家政権が確立したことを内外に示すデモンストレーションの意味を持つ重要な行事であった。この時嫡男の頼家が初めて鹿を射止めて武家政権の後継者の資格を有することを示し、頼朝は大いに喜んで祝宴を催した。
h H 頼朝の死後、二代将軍には頼家、三代将軍には○○(いずれも頼朝の子)が就任したが、1219年に○○が暗殺されて源氏将軍は三代で絶えた。
i A 頼朝は1160年の○○○○で父の義朝に従い初陣に臨んだ。義朝は藤原信頼と共に一時政権を握ったが平清盛に敗れ、東国に逃れる途中で謀殺された。
i F 伊豆国の豪族。平氏に仕え、伊豆に流された頼朝の監視を命じられ、頼朝が娘との間に子をもうけると平氏を憚ってこの子を殺した。頼朝が挙兵した際には平氏方として戦い頼朝を敗走させた。後に捕らえられ、罪を赦されたが自殺した。
  • ヒント
  • 解答
※画像をクリックで拡大します。

あなたの「歴史」を発信する

無料見積り・お問合せ

歴史の森

〒151-0073
東京都渋谷区笹塚
1丁目56-6
クレセントプラザ笹塚50D号

[営業時間]
9:00~17:00
[定休日]
土・日・祝・年末年始
■ペーパーズ・依頼出版ほか・古記録解読
TEL:050-3670-8253
■クライアント関連
TEL:03-6304-2471

※古記録資料の解読についてお問合せの際は、こちらをご一読ください。

弊社へのアクセス方法

在宅スタッフ募集