クイズで確認 知ってるつもりの日本人 ―― (53)吉田松陰

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について「伝記」一冊分を読みおえたレベルの内容を“頭の運動”的な親しみやすいクイズ形式にまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1

  • タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
クイズ53
吉田松陰
- クイズで吉田松陰を確認しよう!
タテ
A a 長州藩の藩学。松陰は10歳にしてこの藩学で家学を教授した。
A e 1859年、松陰は幕府の命により江戸に護送された。これは安政の大獄で捕縛した小浜藩士・○○○○との関係を問うためであった。
B b 長州藩士。松陰の妹の文と結婚した。松陰に師事し、松陰からその才を「縦横無礙」と評された。禁門の変で流れ弾に当たり自害した。
B g 1859年、松陰は江戸○○○の獄で幕府により処刑された。
C e 1854年、松陰は○○○○○とともに下田でアメリカ船ポーハタン号に乗り込み外国に密航しようとしたが拒否され、翌日自首した。
D f 松陰は1830年、長州藩士○○○(百合之助)の次男として生まれた。
E a きわめて誠実であることを意味する言葉。松陰はこの言葉を好んで用いた。
E e 天皇を尊崇し、他国を排撃しようとする政治思想。松陰の門下からはこの思想を掲げる維新志士が輩出した。
F a 1854年、外国への密航に失敗した松陰は自藩幽閉の処分となり長州藩の○○○に収容された。約1年後に出獄して実家に預けられたが、過激な言動が原因で1858年に再び収容された。
F e 周防国の農民の子として生まれ、松陰に師事した。維新志士として活動し、後に初代内閣総理大臣となった。
G c 長州藩の下級武士の子として生まれ、松陰に師事した。維新後は陸軍創設・徴兵令施行・軍人勅諭の発布などを行い近代軍政の基礎を築いた。
H b 彦根藩主で、幕府の大老を務めた。安政の大獄と呼ばれる、将軍継嗣問題・条約調印問題における反対勢力に対する弾圧を行い、松陰を処刑した。
H f 中国南宋時代に確立された儒学の学説。松陰の叔父・玉木文之進が信奉しており、松陰もその影響下で思想形成した。
I b 1840年、松陰は藩主の前で、兵学者・山鹿素行の主著である『○○○○』を講じた。
I f 長州藩士の子として生まれ、松陰に師事した。松陰が投獄された際にはこれに抗議して謹慎処分を受けた。明治維新後、萩の乱と呼ばれる士族反乱を起こすが鎮圧され処刑された。
ヨコ
a A 1852年4月に長州藩から帰国を命じられた松陰は7ヶ月萩に屏居し、その間に六国史の一つで日本最初の勅撰の歴史書である『○○○○』や同じく六国史の一つである『続日本紀』など国史の研究に没頭した。
a F ○○○○(慶親)は、幕末期の長州藩主。1840年に松陰の講義を受けその巧みさに驚き、1844年に再度受講した際には激賞して褒賞を下賜した。また、後に松陰が藩の許可を得ずに東北を視察して処罰された際には、特別の計らいにより諸国遊学を許可した。
b C 松代藩士。1851年に江戸に移って砲術・兵学を教授し、松陰もその門下となった。弟子の松陰に外国行きを暗に勧め、松陰が外国への密航に失敗すると連座して処罰された。
c B 松陰が唱えた、志を同じくする在野の人に広く決起を呼びかける考えを○○○○と呼ぶ。
c F 松陰の叔父・玉木文之進が開設した私塾で、後に松陰が受け継いで主宰者となった。この塾の門下生から維新志士が輩出した。
d A 1858年に勅許を得ないまま幕府が○○○○○○条約を締結すると、松陰はこれを激しく批判した。
e D 吉田松陰の「松陰」は号であり、実名は「○○」である。
f A 長州藩士。松陰に師事し、松陰からも高く評価された。討幕運動の中心人物として活動し、奇兵隊を結成した。
g E 『○○○○』は『孟子』に関する講義録であり、松陰の主著。外国への密航に失敗して獄中にあった松陰が同囚を誘って開いた『孟子』の講読会で講じた内容をまとめたもの。
h F 幕末の志士。肥後国の医師の子として生まれた。九州遊歴中の松陰と知り合い、東北遊歴に同行した。1864年、京都の池田屋で会合中に新撰組に襲撃され自刃した(池田屋事件)。
i A 松陰は5歳の時に○○流兵学師範として長州藩に仕えていた叔父の吉田大助の養子となった。
i C 松陰には○○○○○○との別号がある。
  • ヒント
※画像をクリックで拡大します。
クイズ52
明智光秀
- クイズで明智光秀を確認しよう!
タテ
A b 1575年、光秀は九州の名族である○○の姓と日向守の官職を与えられ、以後○○日向守と名乗った。
A d 本能寺の変の際、織田信長の嫡男の信忠は妙覚寺に宿泊していた。光秀の謀叛を知ると本能寺に入ろうとしたが果たせず、皇太子誠仁親王を禁裏に移して○○○○に立て籠もり、防戦の末に自害した。
B a 1582年6月2日に織田信長を討った光秀が、同月13日には山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて滅んだという故事から、きわめて短い間しか地位や権力を保てないことを意味する「○○○○」という言葉が生まれた。
b g 山崎の戦いの際、筒井順慶が○○○で形勢を窺ったという話が一般に流布し、日和見的態度を意味する「○○○」という言葉の元となったが、実際には○○○に陣を置いたのは光秀の方であり、ここで順慶の来援を待ったが順慶は静観の構えを崩さなかった。
C e 本能寺の変の直前、光秀は愛宕山に参詣し、○○の第一人者として知られた里村紹巴らを交えて○○の会を催した。ここで光秀が詠んだ「ときは今 あめが下知る 五月かな」の発句が有名である。
D c 1571年に延暦寺を焼き討ちした織田信長は、光秀に近江国滋賀郡の支配を命じた。光秀は○○の地に築城を開始し、72年にはほぼ完成した。フロイスの『日本史』によれば、当時○○城は安土城に次ぐ天下第二の名城と評されたという。
E a 1568年に○○○○が織田信長を頼った際に光秀はその仲介をしたとされる。以後しばらく、光秀は○○○○に仕える幕臣であると同時に信長の家臣でもあるという特殊な立場にあった。
E f 光秀の次女の玉子はキリスト教の洗礼を受け、○○○○という洗礼名を贈られた。細川忠興の夫人であり、一般には細川○○○○の名で知られる。
F d 1580年、織田信長は重臣である○○○○○と子の信栄に対して突如譴責状を発し、織田家から追放した。信長はその譴責状で、○○○○○の怠慢と対比する形で、光秀の丹波平定の功績を第一に挙げて賞賛した。
G f 1577年、光秀は織田信長に背いた○○○○が籠もる信貴山城の攻撃に参加し、これを滅ぼした。
H a 明智○○は光秀の家臣で、光秀の娘婿となり明智姓を名乗った。山崎の戦いの敗報を受け、光秀の妻子を殺して自害するため、敵軍に封鎖された陸路を避けて騎馬で琵琶湖を渡ったという「左馬助湖水渡り」の伝説で知られる。
H f 羽柴秀吉は本能寺の変の報を受けて中国路を引き返す間に、畿内の諸将が光秀に味方するのを阻止するため摂津茨木城主○○○○らに「織田信長・信忠父子は無事近江に逃れた」との偽情報を流すなどの工作を行った。
I a 1578年、有岡城主○○○○が織田信長に背くと、光秀の娘が○○○○の嫡子村次に嫁いでいた縁もあって光秀が説得のため派遣された。
I f 本能寺の変に際して、織田信忠は嫡男の○○○(信長の嫡孫。後の織田秀信)を家臣の前田玄以に託した。玄以は○○○を連れて京都を脱出し、尾張に逃れた。
ヨコ
a A 織田信長に仕える前の光秀の経歴に関しては不明な点が多いが、『細川家記』などによれば越前の○○○○に仕えた後に信長に転仕したという。
a F 1582年6月13日、本能寺の変後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて勝龍寺城に入った光秀は、暗夜に乗じて城を抜け出し落ち延びようとしたが、○○○まで来たところで落ち武者狩りの襲撃に遭って深手を負い、その場で自害したとされる。
b C 1575年に光秀は丹波攻略を開始したが、それまで光秀に従っていた八上城主○○○○○が突如背いたため敗走し、丹波攻略は長期戦を余儀なくされた。79年に八上城は落城し、降伏した○○○○○とその兄弟は織田信長のもとに送られ、磔にされた。
c A 1573年に○○○○が京都所司代に任じられると、光秀はその補佐として京都の行政を担った。
c F 1582年5月、光秀は織田信長のもとを訪れた○○○○の饗応役を務めたが、羽柴秀吉から毛利の大軍が出陣したとの報が入ったため饗応役を解かれ、秀吉への加勢を命じられた。
d B 光秀は丹波攻略の拠点とするため1577年頃丹波○○城を築城し、平定後の80年に丹波一国を拝領した。
d F 1582年6月12日に羽柴軍に○○○を占拠され、翌13日の戦闘で光秀は敗北した(山崎の戦い)。
e B ○○○○(苗字は長岡とも)は光秀の与力であり、姻戚関係もあったが、本能寺の変後すぐに剃髪して幽斎と号し、光秀への協力を断った。○○○○や筒井順慶など親密な関係にあった武将の協力を得られなかったことは光秀にとって大きな誤算であった。
e F 豊臣秀吉は御伽衆の○○○○に命じて、光秀の討伐を題材とした「明智討」などの、自身の事績を喧伝するための新作能を作らせた。
f A 光秀の重臣である斎藤利三の妹が○○○○元親の妻である縁から光秀は織田家と○○○○家の取次を務めた。信長の○○○○家に対する政策への不満に、本能寺の変の一因を求める説が存在する。
g C 光秀は通称を○○○という。
g H 織田信長の三男の○○は四国攻略の総大将に任じられたが、堺から出航する直前に本能寺の変の報がもたらされると軍は混乱して兵の大半が逃亡してしまったため単独で光秀と戦うことができず、羽柴秀吉の軍と合流して山崎の戦いで光秀を破った。
h A 織田信長の弟・信行の子。本能寺の変の際は四国攻略に備えて大坂城にいたが、光秀の娘婿であったために共謀を疑われて殺害された。
i A ○○○○(荻野悪右衛門)は丹波の豪族で、幼少の当主に代わって一族を率いた。1570年に織田信長に従ったが後に背き、光秀の丹波平定に抵抗した。78年に○○○○が黒井城で没すると、その翌年に光秀は黒井城を攻略し、これにより丹波平定は概ね完了した。
i F 光秀の出自に関しては、土岐氏の支流で○○国明智城の城主の子ともいわれるが定かではない。しかし、○○国の出身であることは確かであると考えられる。
i H 1582年6月2日に織田信長を討った光秀は、5日に○○城を占領し、信長の財宝を家臣たちに分け与えた。
  • ヒント
  • 解答
※画像をクリックで拡大します。

あなたの「歴史」を発信する

無料見積り・お問合せ

歴史の森

〒151-0073
東京都渋谷区笹塚
1丁目56-6
クレセントプラザ笹塚50D号

[営業時間]
9:00~17:00
[定休日]
土・日・祝・年末年始
■ペーパーズ・依頼出版ほか・古記録解読
TEL:050-3670-8253
■クライアント関連
TEL:03-6304-2471

※古記録資料の解読についてお問合せの際は、こちらをご一読ください。

弊社へのアクセス方法

在宅スタッフ募集