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日本人

クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(32)葛飾北斎 ―

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1
  • 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。

(32)葛飾北斎の解答

タテ

A

a

1778年、北斎は当時役者絵の大家とされていた○○○○に入門した。

A

f

北斎は、浮世絵師から洋風画家に転じた○○○○の洋風画・銅版画の技法を取り入れた。

B

b

1867年にパリで開かれた○○○○○をきっかけとしてヨーロッパでジャポニスム(日本趣味)が起こり、北斎の名が広く知られることになった。

C

c

北斎は、1848年に『○○○○○』で油彩画・ガラス絵・銅版画などの制作方法を紹介した。

D

a

「フランスの浮世絵師」と称されるアンリ・リヴィエールは、北斎の「富嶽三十六景」を下敷きに「○○○○○○三十六景」という版画シリーズを制作した。

E

b

1794年、北斎は琳派の頭領の雅号である○○○○を襲名した。

E

g

主にフランスで活躍したオランダの画家。代表作に「ひまわり」など。北斎など、日本の浮世絵の影響を受け独自の画風を確立した。

F

b

北斎は狩野融川について狩野派の絵を学び、ついで三代目○○○のもとで漢画を修得した。

F

e

北斎は幼名を○○○といい、10歳の頃に鉄蔵と改めた。

G

a

文政初年頃から天保初年頃にかけて、北斎の風景画の代表作である全46枚の「富嶽三十六景」、全8枚の「諸国滝廻り」、全11枚の「○○○○○○」などのシリーズが集中的に刊行された。

H

b

1804年、北斎は江戸音羽の○○○で、120畳の大きさの紙に達磨を描くというイベントを開催して評判となった。

H

g

北斎の作品としては、1814年頃から読本の挿絵が急激に減少し、○○○が増え始めた。

I

b

北斎は、住吉広行のもとで○○派の絵を学んだ。

I

d

「富嶽三十六景」は、江戸馬喰町の大店である西村屋与八(○○○○堂)を版元として刊行された。

ヨコ

a

A

源為朝の琉球渡来伝説を扱った曲亭馬琴作の読本。北斎が挿絵を描いた。

a

F

北斎は1843年頃から、「○○○○」と題する獅子の図を描くことを日課としていた。

b

B

「富嶽三十六景」のような、多色摺の浮世絵版画を○○と呼ぶ。1780年頃以降は、これ以外の浮世絵版画はほとんど制作されなくなった。

b

H

葛飾○○は北斎の娘で、自らも浮世絵師として活躍した。美人画の力量は北斎を超えると評されることもある。北斎晩年の作品制作を補佐していたとされる。

c

E

「富嶽三十六景」のうち、俗に○○○と称される「凱風快晴」「山下白雨」の2図は、浮世絵風景画のなかではじめて風景のみを画題とした作品とされる。

e

A

北斎は4、5歳の頃に一時○○○○という幕府御用鏡師の養子になったとされる。

e

G

北斎は戯作者としても活動し、「時太郎可候」の名で数種の○○○を発表した。

f

D

北斎は、役者絵「○○○○○ 正宗娘おれん」ほか2図をほぼ同時に発表して画界にデビューした。

g

A

「富嶽三十六景」が好評であったため、北斎は富士連作の第2弾として「○○○○」を引き続き刊行した。

g

F

北斎らの浮世絵はヨーロッパの芸術家に大きな影響を与え、○○派誕生のきっかけとなった。

h

B

川柳の句集『○○○○○』には「卍」「万治」などの号で北斎の句が収録されている。

h

G

「富嶽三十六景」は、当初は36枚で完結する予定であったらしいが、俗に○○○と呼ばれる10枚が追加で出版され、全46枚で完結した。

i

B

北斎は読本・合巻作者の○○○○とコンビを組み、『近世怪談霜夜星』などに挿絵を描いた。

i

F

1814年から北斎没後の1878年にかけて刊行された『○○○○』は、あらゆる対象を百科全書的に描いた初学者用の絵の手本。「ホクサイスケッチ」と呼ばれて古くからヨーロッパにも知られ、多大な影響を与えた。

ヒント

解答

(31)加藤清正の解答

タテ

A

a

清正は幼名を夜叉丸といい、元服後は○○○清正と称した。

A

e

1600年の関ヶ原の戦いでは清正は東軍に属し、九州を転戦して西軍方の城を攻略した。そうしたなか、同様に東軍に属して九州を転戦していた○○○○(孝高・官兵衛)の手紙で関ヶ原での東軍勝利を知らされた。

B

b

1611年、清正は○○○○を説得して二条城で徳川家康との会見を実現させた。

B

h

1596年に伏見城が○○により壊れた際に、謹慎中であった清正が豊臣秀吉の身を案じて真っ先に駆けつけたため謹慎を解かれたという「○○加藤」の話があるが、謹慎解除の真相は不明である。

C

d

1583年の○○○の戦いで清正は七本槍の一人に数えられる功績をあげ、近江・山城・河内などに3000石の知行を与えられた。

D

c

豊臣秀吉死後の1599年、○○○○が清正ら7人の武将の襲撃を受け、隠居を余儀なくされるという事件が起こった。

E

a

文禄の役で漢城に入った清正ら日本軍の諸将は、朝鮮を安定的に統治するため、朝鮮を8地域に分けてそれぞれに武将を配置するという、「○○○○」と呼ばれる政策を実施した。

E

e

清正は尾張国愛知郡○○(現在の愛知県名古屋市○○区)に生まれたといわれており、豊臣秀吉と同郷である。

E

g

1610年、徳川家康は西国の外様大名らに○○○城の普請を命じた。度重なる課役に不満を漏らした福島正則に対して清正は、「謀叛を起こす決心がないならば工期を急げ」とたしなめたとされる。

F

a

清正は死後に神格化され、いわゆる○○○信仰が日本中に広まった。

F

d

徳川家の天下になって間もない頃、江戸の城下を愛馬の○○○○に乗って往来する清正の姿は市民の間で評判となり、「江戸のもがりにさわりはすとも よけて通しゃれ○○○○」という唄が流行した。

G

d

1601年、前年の関ヶ原の戦いの論功行賞が行われ、清正は肥後国の南半を与えられ、肥後54万石の大名となった。関ヶ原の戦い直前には徳川家康から「肥後と筑後を与える」との内約を得ていたが、筑後は○○○○に与えられた。

G

h

1589年に○○で一揆が起きると、清正は援軍として出陣し、これを鎮圧した。

H

c

朝鮮出兵の際、清正は○○○○と騙されてセロリを日本に持ち帰ったとされており、セロリを清正人参とも呼ぶ。

H

h

加藤家の改易後に熊本藩主となった○○家は清正に対して江戸時代を通じて敬意を払い続け、その菩提寺である本妙寺を庇護した。

I

b

幼くして父を亡くした清正は羽柴(豊臣)秀吉に仕え始め、十代の少年期を秀吉の本拠地である近江国○○で過ごした。

I

e

1600年の関ヶ原の戦いで東軍に属した清正は、10月15日頃に西軍方の肥後国宇土城を開城させたのに続き、○○○○を説得して居城である筑後国柳川城を開城させ、28日頃まで柳川に在陣した後熊本に帰った。

ヨコ

a

A

1588年、豊臣秀吉は肥後国の北半国を清正に、南半国を○○○○に与え、何事も二人で相談して肥後国を治めるよう命じた。

a

F

1597年に始まった慶長の役では、清正は○○○○を大将とする右軍に属した。

b

C

1599年、清正は徳川家康の養女である○○○を正室に迎えた。

b

G

1586年に播磨国にある5000石ほどの○○○(直轄領)の代官に任じられたのをはじめ、清正は豊臣秀吉から数ヶ所の○○○の管理を任された。このことから、清正ははじめは武将としてよりも吏僚としての能力を評価され秀吉に取り立てられたと考えられる。

c

C

清正は、文禄の役における出費をカバーするため○○(フィリピン)との貿易を計画した。

c

G

1597年の○○の戦いは、慶長の役において清正らが明・朝鮮連合軍に○○城を包囲された籠城戦。普請の途中であったため城中には十分な水・兵糧がなく、12日間にわたる籠城で多数の餓死者・凍死者を出した。

d

A

1591年、清正は豊臣秀吉から、明征服のための前線基地として○○○城の築城を命じられ、黒田長政らとともに城の普請を行った。

d

H

○○神社の大宮司職を代々受け継ぐ○○氏は惟光の代に島津氏に滅ぼされた。後に惟光は一揆の首謀者と讒言され、豊臣秀吉に死を命じられた。清正は惟善に350石の領地を与え、○○神社を復興した。

e

E

清正の死後は子の○○が跡を継いだが、御家騒動などにより改易され、加藤家は断絶した。

f

B

清正は母の影響で○○宗を熱心に信仰しており、領内ではキリシタンの弾圧政策をとった。

g

A

豊臣秀吉の死後、1599年に○○○○が秀吉の法度に背いた徳川家康を詰問し、一時はそれぞれの下に諸大名が参集するという一触即発の事態になったが、清正らの奔走により和解が成立した。

g

F

清正は文禄の役で、オランカイと呼ばれる朝鮮半島北方の○○族が住む地域に遠征し、明への侵攻ルートの視察を行った。

g

H

清正は文禄の役において、臨海君・順和君という朝鮮の二人の○○を捕らえた。

h

C

清正が築いた熊本城は1877年に○○○○の戦場となった。攻城側の薩摩軍は一兵も城内に入ることができず、熊本城の堅城ぶりが証明された。なお、薩摩軍の総攻撃が行われる3日前に出火して天守閣と本丸御殿一帯が全焼した。

i

A

豊臣秀吉により九州が平定されると、○○○○が肥後国の領主に任命された。しかし一揆が勃発したため○○○○は解任されて自害を命じられ、その後任として清正が肥後北半国の領主に任じられた。

i

F

朝鮮出兵で清正が領国を留守にしている隙を突き、島津氏の家臣が清正の佐敷城を占拠した事件を○○○○と呼ぶ。

ヒント

解答