クイズで確認 知ってるつもりの日本人 ―― (45)北条時宗

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について「伝記」一冊分を読みおえたレベルの内容を“頭の運動”的な親しみやすいクイズ形式にまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1

  • タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
クイズ45
北条時宗
- クイズで北条時宗を確認しよう!
タテ
A a 時宗の父の時頼は1256年に出家したが、時宗が未だ幼かったため中継ぎとして執権職を○○○○に譲った。
A f フビライの死後に後を継いだ成宗が1299年に禅僧○○○○を日本へ派遣したのを最後に、元は日本との交渉を完全に断念した。
B c 1回目の元の襲来後も、時宗は元の使者として来日した○○○らを竜ノ口で斬るなど、一貫して元に対して強硬な姿勢を示した。
C a 1272年、時宗は名越時章・教時らの北条一族内の庶流を誅殺し、北条一族をほぼ完全に掌握した。この事件を○○○○と呼ぶ。
D b 1度目の元の襲来の後、幕府は再度の襲来に備えて○○○○○○と呼ばれる防衛体制を敷いた。
E b 時宗の母は○○○○の娘である。
E g 元の政治家。1271年・73年に元の使者として来日し、日本遠征が困難かつ無価値であることをフビライに説いたが聞き入れられなかった。
F c 時宗は後宇多天皇の皇太子に後深草上皇の皇子を推戴し、持明院統・大覚寺統の間における○○○○の端緒をつくった。
G a 時宗は法名を○○といった。
H b 時宗は、父の時頼が建長寺を建立して招いた○○○○らの禅僧に深く帰依した。
I a ○○○○は自らの養女を時宗の妻とし、蒙古襲来の際には評定衆・恩沢奉行などを務め外戚として時宗を助けた。
I f 1276年3月頃から、幕府は再度の元の襲来に備えて博多湾沿岸に○○○の築造を開始した。
ヨコ
a B 1260年、時宗は将軍に近侍し宿直などを管理する○○○に入り政務経験を積んだ。
a E 1268年、連署であった時宗は執権○○○○と役職を交代し、時宗が執権、○○○○が連署となった。
b A 時宗は北条時頼の次男であるが、正室の子であったため兄の○○を差し置いて時頼の嫡男とされた。
b E 1266年、時宗らの幕府首脳は、将軍○○親王を京都に送り返し、新たな将軍として惟康王を迎えた。
c F 1261年、時宗は○○○○の娘の堀内殿と結婚した。
d F 時宗の幼名は○○である。
e A 1282年、時宗は無学祖元を開山として○○○を建立した。
e G 時宗は元の襲来という危機に対応するため非○○○の軍役動員などを進め、幕府を事実上の全国政権としていった。
f B 元の襲来の後、九州の武士が訴訟のために所領を離れることを避けるため○○○○が置かれた。
f G 元の襲来は武士の一族内における庶子の独立を促し、鎌倉幕府の存立基盤である○○○の解体を促進する一因となった。
g A 時宗の時代に北条氏嫡流(得宗)による専制が強化され、得宗被官(御内人)の最有力者である○○○らによる寄合が政治の中心に置かれた。
g E 1277年に塩田義政が連署を辞任し、以後83年に○○○○○が就任するまでは連署が置かれず、執権職は時宗の独任であった。
h B 1251年、時宗は父・時頼の母○○○○の居宅である甘縄の安達邸で生まれた。
h F ○○○○が自身の活躍を描かせた『蒙古襲来絵巻』は、蒙古襲来の様子を伝える絵画資料として有名である。
i A 1268年に臣従を求める元の使者が到来すると、日蓮は北条時頼に呈した自らの著作『○○○○○』の予言が的中したと主張し法華経への信仰を訴えたが、時宗はこれを退け佐渡に配流した。
i F 1274年・81年の2度にわたる元(モンゴル)軍の日本襲来を、○○・○○の役、元寇、蒙古襲来などと呼ぶ。鎌倉幕府執権としてこれに対応したのが時宗であった。
  • ヒント
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クイズ44
新井白石
- クイズで新井白石を確認しよう!
タテ
A b 1682年、白石は大老○○○○に仕えた。
A f 1693年、白石は甲府藩主○○○○(後の6代将軍家宣)に侍講として仕えた。
B a 1704年に主君の徳川家宣が綱吉の後継者とされ江戸城西ノ丸に入ると、白石も西ノ丸○○となった。
B f 久留里藩を追われた白石に対して豪商の角倉了仁や○○○○から縁組の話があったが白石はこれを断った。
C e 白石に、加賀藩への仕官を推薦するという話が持ち上がった際に、白石は同国出身の○○○○にその職を譲った。
D b 白石の父はかつて新井家の召使であった豪農に養われたが、13歳の時に養子の事実を知ってこれを恥じ、○○に出奔した。
D f 白石の著書『○○○』は、神代から神武天皇までの伝承を考察した史論である。
E d 1708年、イタリア人宣教師シドッチが日本に潜入して捕らえられるという事件が起きた。白石はこの尋問に当たり、そこで得た知識により『○○○○』『采覧異言』を著した。
F a 白石が祖先および自身の事績や徳川家宣・家継の政治などを記した自叙伝。自伝文学として高く評価されている。
F g 林○○(信篤)は儒者として幕府に仕え幕府の文教政策を司った林家の当主であるが、白石とは意見の合わないことが多かった。
G b 白石は側用人○○○○とともに6代将軍家宣・7代将軍家継を補佐して政治に力を尽くした。
G f 白石は30歳の頃から○○○○の弟子となり門下の五先生または十哲の一人に数えられた。
H a 白石の父は新井○○である。
H c 白石は生前および死後間もない頃は学者としてよりもむしろ詩人として高く評価されており、『○○○○』は朝鮮・琉球・清国にも伝わって絶賛された。
H g 1716年に徳川家継が死去し、○○が将軍になると白石は失脚した。
I b 1715年、幕府は白石の立案により○○○○○○と呼ばれる長崎貿易の制限令を制定した。
ヨコ
a A 白石の祖父は常陸国下妻城主○○○○○に仕えていたが、関ヶ原の戦い後に主家とともに所領を失い浪人となった。
a G 白石は『史疑』を著し、古代律令国家により編纂された正史である○○○の文献批判を行った。
b C 久留里藩を追われた後、白石は父がかつて養子とした相馬藩士○○○○から仕送りを受けて浪人生活をした。
c A 白石の墓はもと東京都浅草の報恩寺にあったが、現在は中野区の○○○に移されている。
c D 白石は儒学者としては○○学派の系統に属する。
d B 白石は○○○○○の接遇を簡素化し、国書にある将軍の呼称を「日本国大君」から「日本国王殿下」に改めさせたが、白石の失脚後に全て元の形態に戻された。
d G 1711年、白石は従五位下○○○に任じられた。
e B 白石の著書『○○○』は諸大名家の系譜と伝記をまとめたものであり、近世史を研究する上で重要な史料となっている。
h D 白石の著書『○○』は、名詞を分類して語源的解説を試みた語学書であり、一種の辞書といえる。
h F 白石の父は31歳の時に上総国久留里城主○○○○に仕え、白石も幼少の頃からかわいがられ、側近く召し使われた。
i A 白石らの補佐を受けて6代将軍家宣・7代将軍家継が行った政治を○○○○と呼ぶ。
i E 1710年の○○○○○の改定(宝永令)は白石の草案によるものである。
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