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日本人

クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(5)西郷隆盛 ―

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1
  • 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。

(5)西郷隆盛の解答

タテ

A

a

初代鹿児島県令。異例ともいえる地元出身の県令であり、政府に対して半独立的な態度を取り、その県政の下で鹿児島県は西郷派士族による独立国のようになった。西南戦争では県の公金を軍資金として提供するなど西郷軍を積極的に支援したため、官位を剥奪され処刑された。

A

f

1871年11月から73年9月にかけて、○○○○を特命全権大使とする使節団が欧米諸国を歴訪している間、隆盛は筆頭参議として留守政府を主導した。

B

d

外交的緊張が高まっていた朝鮮に対して隆盛は自ら特使として交渉に赴くことを提案したが、岩倉具視・大久保利通らは出兵に至ることを危惧してこれに反対し、論争に敗れた隆盛をはじめとする参議は辞職した。この事件を、当時の年号から○○○○の政変と呼ぶ。

B

h

武力討幕を目指す隆盛の指示により、幕府への挑発を目的として江戸市中で辻斬り・強盗・火付けなどが繰り返された。これらの擾乱行為は江戸市中取り締まりにあたっていた○○藩の屯所への発砲事件にまで至り、ついに幕府は三田の薩摩藩邸の焼き討ちを決行した。

C

a

最大・最後の士族反乱であった隆盛の反乱が鎮圧されると、反政府運動の中心は武力による反乱から、言論により民主主義の実現を訴える○○○○運動へと移っていった。

C

f

長州藩の志士。隆盛との間に薩長同盟を結び、討幕運動を推し進めた。西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」に数えられる。西南戦争の最中に病没した。病床で「西郷もまた大抵にせんか」と怒鳴ったという逸話がある。

D

d

隆盛は農政改革を求める意見書を提出したことにより藩主の○○○○に見出され、その片腕として活動した。

E

a

明治維新後、隆盛は2000石の○○○(維新の功臣に対して政府から与えられた恩典)を与えられた。

E

g

1874年に隆盛が職を辞して下野すると、これに従い辞職・帰郷する薩摩出身の軍人や文官が数百人に及んだ。隆盛は彼らを指導・統御するため○○○を設けた。

F

c

隆盛は号を止水、のち○○と称した。

F

f

○○○○は、はじめ中村半次郎と名乗り、人斬り半次郎の通称で知られた。隆盛のもとで尊攘派として活動し、戊辰戦争では会津若松攻めの軍監を務めた。西郷が下野した際にこれに従い、西南戦争で西郷軍の総指揮をとり戦死した。

G

a

○○○の戦いは、西南戦争における最大の激戦。1877年3月4日から攻撃を開始した政府軍は、3000名を超える死傷者を出しながらも同月20日、遂に西郷軍の陣地を突破した。この戦いにより西南戦争の帰趨が決した。

H

b

幕臣。戊辰戦争に於いて江戸が新政府軍に包囲された際に、新政府側の隆盛と会談し、江戸城の無血開城を実現させた。

H

e

三菱財閥の創設者。大久保利通・大隈重信など政界人と結び、西南戦争をはじめとする内乱鎮圧のための政府の軍需輸送を独占して巨利を得た。

I

b

土佐藩の志士。隆盛らとの間に薩土盟約を結んだ。維新後、征韓論争に敗れて隆盛らとともに下野し、高島炭坑の経営に携わるなどした。後に政府に復帰するが、帝国議会において財界との癒着を攻撃され、農商務大臣を辞任した。

I

g

地球の外側を公転している惑星。西南戦争後に隆盛の霊と考えられ、「西郷星」と呼ばれた。

ヨコ

a

A

隆盛は藩主の意を受けて一橋慶喜を将軍継嗣に擁立する運動を行っていたが、1858年、将軍継嗣として徳川慶福を推す井伊直弼が幕府大老に就任すると、薩摩藩は幕府をはばかり、隆盛に○○○○という変名を名乗らせ、奄美大島に潜居させた。

a

F

1862年、隆盛は京坂にいる尊攘激派を慰撫するため、島津久光の命令を無視して独断で京坂に向かった。このため久光の怒りを買い、罪人として徳之島、ついで○○○○島に流されることとなった。

b

B

1868年、戊辰戦争に際して隆盛は○○○○○府参謀に就任し、新政府軍を率いた。

b

H

西郷○○は隆盛の弟。尊攘派の志士として活動し、維新後は政府に出仕した。隆盛が大久保利通らと対立して下野した際に兄と袂を分かち政府に残った。通算10年にわたり海軍大臣に在任し、海軍の整備に努めた。

c

B

1898年、東京の上野公園に○○○○作の隆盛の銅像が建てられた。

d

E

隆盛は1827年、薩摩国鹿児島城下の○○○○町に生まれた。

e

A

江戸幕府が倒壊していくのと時期を合わせて、東海・近畿地方を中心とした地域で起こった熱狂的乱舞をともなう民衆運動。神符(御札)が天から降ったことをきっかけとして始まったとされるが、倒幕派の政治工作の存在も指摘されている。

f

A

井伊直弼が大老に就任して安政の大獄が始まると、幕府の追及に窮した隆盛は同志の僧○○とともに鹿児島湾に身を投げ入水自殺を図った。僧はそのまま死亡したが、隆盛は命を取り留めた。

f

C

隆盛が西南戦争に敗れて死亡した後もその生存説が囁かれ続け、なかでも1891年に○○○の皇太子が来日した際には、皇太子一行とともに隆盛が日本に帰ってくるという噂話が流布した。

f

F

○○○は薩摩出身の志士・軍人で、隆盛の従兄弟にあたる。西南戦争には政府軍の別働第一旅団司令長官として参加した。初代陸軍大臣となり、陸軍の重職を長期間務めた。

g

E

西郷○○○は、隆盛が奄美大島に潜居していた際に島民の愛加那(あいがな)との間にもうけた子。西南戦争で父に従って転戦し、片足を失った。1904年に京都市長に就任した。

h

C

陸軍大将として日露戦争で旅順攻略を指揮し、後に明治天皇に殉死したことで知られる○○○○は、西南戦争に政府軍の歩兵連隊長として参加した際に西郷軍に軍旗を奪われたため自決を決意したが思いとどまった。

h

G

1867年の○○○会議は、徳川慶喜の処分に反対する山内容堂・松平春嶽らと討幕派の岩倉具視・大久保利通らが激しく対立して紛糾したが、休憩中に隆盛が「短刀一本で片付く」と語ったことが伝わると容堂・春嶽は抵抗をやめ、慶喜に辞官納地を命じることが決定された。

i

C

西南戦争の戦費調達のために薩摩軍が発行した紙幣。信用が薄く、薩摩軍の敗北により完全に価値を失った。

i

G

1876年に布告された○○○(帯刀禁止令)は士族の不満を高め、後の士族反乱の一因となった。

ヒント

解答

(4)坂本龍馬の解答

タテ

A

a

1853年に江戸に出た龍馬は、千葉定吉の道場で○○○○流の剣を学んだ。

A

e

○○○○(木戸孝允)は長州藩の志士。武器購入のため、龍馬の斡旋により薩摩藩との提携をはかり、薩長同盟を成立させた。この時の合意内容を文章化して龍馬に送り、その保証を求めた。

B

b

龍馬は○○○○○という変名を名乗っていた。

B

h

1866年、龍馬は伏見の○○屋にいるところを幕府の捕吏に襲撃され、短銃で応戦した後、伏見の薩摩藩邸により救助された。

C

d

土佐藩士・画家。アメリカから帰った中浜万次郎の取り調べを行った。1854年に龍馬が江戸から土佐に戻ると、海運の必要などについて龍馬に教示した。

D

a

幕臣勝海舟に弟子入りした龍馬は、1863年に勝による神戸○○○○○の設立を助け、その塾頭となった。

D

f

1870年に、箱館戦争で捕らえられた元京都見廻組隊士の○○○○が、佐々木只三郎の指揮で龍馬を暗殺したことを自供した。これを根拠として、今日では龍馬を暗殺したのは京都見廻組であるとの説が有力である。

E

c

土佐藩主山内豊信により参政(実質的な藩政指導者)に抜擢された○○○○は藩政改革の中心となったが、その開明的な政策が尊攘派の反発を招き、武市瑞山(半平太)の指示で暗殺された。

E

h

坂本家は、龍馬の曽祖父にあたる兼助が○○の株を取得して、富商である本家から分家して立てた家である。

F

b

1866年に幕府の捕吏に襲撃された龍馬は○○の機転により難を逃れ、彼女と結婚した。

F

f

龍馬の死後、○○○の位が追贈された。

G

e

土佐藩士。大監察として武市瑞山の一派を弾圧した。ついで参政に就任し、殖産興業政策を推し進めた。1867年に長崎で龍馬と会談し、その結果土佐藩は龍馬の脱藩の罪を赦した。以後龍馬とともに公議政体論を唱え、幕府老中の板倉勝静に建白書を提出して大政奉還を実現させた。

H

a

○○○○は長州藩の支藩である長府藩の藩士で、1866年に京都の政情視察の命を受けて龍馬とともに上京した。伏見で龍馬とともに幕府の捕吏の襲撃を受けたが、伏見の薩摩藩邸に駆け込み難を逃れた。

H

f

龍馬の従兄弟。もと山本姓で、箱館の神明社宮司の家に婿入りした際に改姓した。尊皇攘夷思想から箱館のロシア領事館付司祭のニコライを殺害しようとするが、逆に正教の教えに感化され、日本正教会最初の司祭となった。

I

b

龍馬暗殺の当初は新撰組が実行者と疑われ、大久保利通は事件4日後の書状で新撰組局長の名を挙げ、「○○○ガ所為ト被察申候」と記している。

I

f

江戸幕府第15代将軍。老中板倉勝静を通して土佐藩から大政奉還の建白を受け、政権を朝廷に返上した。

ヨコ

a

B

1865年、龍馬は○○○○という商社を設立して通商航海業に乗り出した。

a

F

龍馬は土佐藩の尊攘派の指導者である武市瑞山と交流を深め、武市が1861年に○○○○党を結成するとこれに参加した。

b

C

土佐藩の志士。脱藩し、長州藩を後ろ盾として薩長同盟を画策した。後に土佐藩から脱藩の罪を赦され、武力倒幕に備え陸援隊を組織した。大政奉還後、龍馬とともに暗殺された。

c

A

1867年に暗殺された龍馬は、現在の京都○○○○神社の地に埋葬された。

c

F

1866年、龍馬は藩船で京都に向かう途上で大政奉還・公儀政治などの新国家構想を「○○○○」としてまとめた。

d

E

1867年、龍馬は脱藩の罪を赦され、土佐藩の外郭遊撃隊である○○○の隊長に任命された。

d

H

龍馬が入門した千葉定吉は、斎藤弥九郎の練兵館・桃井春蔵の士学館とともに江戸の三大道場と称された玄武館を開いた千葉○○の弟である。

e

A

松代藩士。江戸に砲術・兵学の塾を開いており、龍馬は1853年にその門人となった。

e

F

1867年、龍馬が伊予大洲藩から借用した○○○○が紀伊藩の明光丸に衝突されて沈没したため、龍馬は紀伊藩と賠償交渉を行うこととなった。

f

E

「龍馬」は通称であり、実名は直陰、のちに○○と名乗った。

g

B

1861年、許可を得て剣術修行の旅に出た龍馬は、翌年1月に長州藩の○○○○に会って意見交換を行い、武市瑞山に宛てた手紙を託された。

g

G

本姓は小川。通称は休太郎。紀伊藩の外交役を務めた。龍馬が乗る船が紀伊藩の船と衝突・沈没した事件を処理したため、龍馬暗殺への関与を疑われ、襲撃を受けて負傷した。維新後は東京府知事・宮中顧問官・貴族院議員を務めた。

h

C

龍馬は1835年に坂本八平○○の次男として生まれた。

i

A

○○○○○(近藤長次郞)は、饅頭商人の子として高知城下で生まれた。長く龍馬の配下にあったが、秘密裏にイギリスに留学しようとしていたことが同志に露見して自害した。

i

F

薩摩藩の志士。龍馬の斡旋により長州藩との間に薩長同盟を結んだ。龍馬が伏見で幕府の捕吏に襲撃された際には京都の薩摩藩邸から兵60人余と医師を派遣し、龍馬らを京都の薩摩藩邸に保護した。

ヒント

解答