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日本人

クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(8)井伊直弼 ―

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1
  • 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。

(8)井伊直弼の解答

タテ

A

b

将軍継嗣問題において一橋慶喜を支持した一橋派に対し、徳川慶福を支持した直弼らの勢力を○○○と呼ぶ。

A

e

開国論を唱えた開明派の幕臣。将軍継嗣に一橋慶喜を推し、徳川慶福を推す直弼から疎まれたが、外交交渉の第一人者であったためしばらくは処罰を免れた。直弼の下で井上清直とともに日米修好通商条約に調印した。後に直弼によって左遷・罷免された。

B

d

条約勅許問題に際して関白○○○○は幕府支持に傾き、外交を幕府に一任する旨の勅を出そうとしたが、廷臣の反対運動により挫折した。

B

h

井伊氏は戦国時代には○○氏に属していたが、直親が讒言により誅殺され、孤児となった直政が後に徳川家康に仕えて譜代大名となった。

C

a

越前国鯖江藩主。直弼の下で老中として日米修好通商条約調印の事情説明のため上洛し、京都で志士弾圧の指揮を執った。江戸に戻った後直弼と不和になり免職された。

D

a

○○○は大久保利通らを指導者とする薩摩藩の尊皇攘夷派グループ。薩摩藩における直弼暗殺計画の中心であり、水戸の同志と密会を重ねて計画を練った。

D

f

国学者。主膳の通称で知られる。部屋住み時代の直弼に国学を講じ、師弟の契りを結んだ。直弼が彦根藩主になると側近として重用された。直弼の幕閣時代には京都で志士の動静を探り、その逮捕を進言して志士弾圧のきっかけをつくった。直弼の死後も彦根藩の藩政に参与したが、政変が起こり処刑された。

E

c

1815年、直弼は彦根藩主井伊○○の十四男として生まれた。

F

b

直弼は部屋住み時代に居合術を修め、自ら○○○流という流派を立てるほどの達人であった。

F

e

江戸幕府第十三代将軍。生来病弱であり、実子がいなかったため後継者の選定が政治問題化した。直弼は紀伊藩主の徳川慶福を推し、一橋慶喜を推す勢力と激しく対立した。

G

b

彦根藩は大名のなかで唯一○○の生産を認められており、その味噌漬は「養老の秘薬」として将軍家・御三家などに毎年献上されていたが、直弼は仏教の禁忌を忠実に守りこれを禁止した。

G

e

1858年から、直弼が将軍継嗣問題・条約勅許問題における反対派を弾圧した事件を、当時の年号から○○○○○と呼ぶ。

H

a

勅許を得ないまま日米修好通商条約を結んだことに対して直弼は、大政委任を受けた幕府が「臨機の○○」をとるのは当然のことであるとの見解を示し、「勅許を待たなかった重罪は甘んじて自分一人が受ける」とした。

H

c

直弼が締結した不平等条約は明治政府にも引き継がれ、最終的に条約改正が達成されたのは1911年、○○○○○外務大臣の時のことであった。

I

a

佐倉藩主。1855年に老中首座となる。開国政策を支持し、アメリカとの通商条約への勅許を得るため上洛したが、果たせないまま江戸に戻った。将軍継嗣問題でははじめ徳川慶福を支持したが、勅許の獲得に難航すると、その実現のために朝廷に信任のある一橋慶喜を支持する方針に転じた。慶福を推す直弼により老中を罷免され、さらに違勅調印の責を負わされ隠居させられた。

I

f

福井藩士。大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾で蘭学などを学んだ。藩主・松平慶永に側近として登用され、一橋慶喜を将軍とする運動に奔走したが、直弼により徳川慶福が将軍後継とされた。直弼が行った弾圧で捕らえられて処刑された。

ヨコ

a

A

1831年、直弼は藩から300俵の宛行扶持をもらい、彦根城第三郭の屋敷に移った。兄が多く、また側室の子であったため家督を継ぐ望みがないように思えた自身の境遇を花を咲かせることのない木にたとえ、直弼はこの屋敷を○○○と名付けた。

a

E

水戸藩主であり、直弼の政敵。将軍継嗣問題では自身の実子である一橋慶喜を後継者に推し、徳川慶福を推す直弼らと対立した。直弼が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したことに怒り不時登城して直弼を非難したが、かえって不時登城の罪で謹慎を命じられた。

b

B

彦根藩は、徳川家康に仕えた井伊直政が関ヶ原の戦功により○○○○の旧領である佐和山に18万石を与えられ、嫡子直勝の時に彦根城を築城して移ったことに始まる。

b

F

○○○○は、江戸後期~明治初期の女性。京都で芸妓となり、後に直弼の寵愛を受けた。直弼が反対派を弾圧した際には情報役として陰で活躍し、尊攘派によって三条大橋で生きさらしにされた。

c

A

直弼の暗殺後に次男の○○が跡を継いだが、事件の責任を問われて彦根藩は10万石を減ぜられた。

d

C

1860年、直弼が水戸浪士らの襲撃を受け殺害された事件を○○○○の変と呼ぶ。

d

G

○○○は、アメリカの商人・教育者で、初代駐日総領事となった。1858年、江戸湾小柴沖のポーハタン号上で日米修好通商条約に調印し、その功績により公使に昇格した。

e

B

直弼が結んだ日米修好通商条約は、居留民に対する事実上の治外法権を意味する○○○○権、日本側の関税自主権の喪失などを含む不平等条約であった。

e

H

1858年、直弼は江戸幕府の○○に就任した。

f

A

直弼は片桐宗猿について石州流茶道の奥義を極め、茶号を宗観を称して『○○○○○』を著した。

g

C

直弼が孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したことなどにより朝幕関係が悪化すると、朝廷は「○○○○○」と呼ばれる幕府の対応を批判する勅諚を水戸藩に下した。これは天皇の幕府・諸藩に対する最初の政治的所信表明であり、直弼に反対派の弾圧を決意させる一因となった。

h

C

1847年、彦根藩が幕府から相州警備を命じられた際に直弼は、井伊家は○○○○の家柄であると反発した。

h

H

江戸時代に刊行された、大名・旗本・幕府役人の名鑑を総称して「○○」と呼ぶ。直弼を襲撃した水戸浪士らは、この本を手にして、上巳の節句(桃の節句)で諸大名が祝賀のために登城する行列の見物を装っていた。

i

A

薩摩藩を脱藩した浪士。直弼の襲撃に参加し、直弼を輿から引き出して首を取ったが自身も重傷を負い自刃した。

i

G

井伊氏は○○氏を本姓とする氏族で、○○共保が遠江守に任じられて井伊谷に住み、井伊氏を称したことに始まるとされる。

ヒント

解答

(7)木戸孝允の解答

タテ

A

a

1866年1月に薩長同盟を結んだ孝允は、11月に長州藩を代表して薩摩に赴き、藩主○○○○およびその父の久光と面会した。

A

f

従来の藩を廃止して、全国を政府の直轄とした改革を○○○○と呼ぶ。孝允は西郷隆盛・大久保利通らと協議してこれを主導した。

B

b

1833年、孝允は長州藩の藩医○○○○の次男として生まれた。

B

f

1852年に江戸に遊学した孝允は、○○○○(坦庵・太郎左衛門)から洋式砲術を学んだ。

C

e

長州藩士。吉田松陰・木戸孝允らと親交があり、孝允の妹のハルを妻とした。横浜で外国人の襲撃を企てたが失敗し、自決した。

D

a

1874年に大久保利通と対立して参議を辞した孝允は、75年の大阪会議の結果参議に復職して第1回○○○○会議の議長となったが、大久保独裁の傾向が強まる政府に不満を持ち、76年に再び参議を辞した。

D

f

幕末期の長州藩は改革派と守旧派に別れて対立しており、改革派は自らを「正義派」と称し、守旧派を「○○○」と呼んでいた。

E

f

江戸幕府第15代将軍に就任し、兵庫開港への勅許を得るなど優れた政治手腕を見せた○○○○に対し、孝允はその胆略を警戒して「家康の再来」と評した。

F

a

孝允は1859年に長州藩の江戸藩邸の学校である○○○の用掛、60年に舎長となった。

G

d

孝允の死後は、孝允と同じく長州出身の○○○○がその遺志を継いで政府の中心となり、1889年に大日本帝国憲法の発布を実現した。

H

c

孝允は、○○○○○同盟を結成して新政府に抵抗した諸藩の帰順を簡単に認めることには反対の立場であった。

H

h

1864年に禁門の変で長州藩が敗れると、孝允は○○という芸妓に助けられて残党狩りが続く京都市街の各所に数日間潜伏した後、京都を脱出して但馬地方へと逃れた。後に孝允は彼女を妻として迎えた。

I

b

孝允は子供の頃、父に頼んで○○○の著作である『日本外史』や『日本政記』を買ってもらい、熱心に読んだという。

I

e

孝允が家督を継いだ桂家は、藩主の毛利家と同じく○○氏を本姓とする家である。

I

g

1860年、孝允は水戸藩の西丸帯刀らと会談し、長州藩と水戸藩が協力して幕政改革を実行することを約した。この盟約を、会談場所となった長州藩の軍艦の艦名から「○○○盟約」、あるいは水戸藩が攘夷を実行して現状を打破し(破)、長州藩が事態を収拾して(成)改革を実現するという内容から「成破の盟約」と呼ぶ。

ヨコ

a

B

諸藩の藩主から天皇へ封土と領民が返上されたことを○○○○と呼ぶ。孝允は早くからこの構想を持っており、長州藩主の毛利敬親を説得するなど主導的な役割を果たした。

a

F

1862年、幕府老中の安藤信正が水戸藩浪士らに襲撃され負傷するという○○○○の変が起こった。孝允は時期尚早であるとしてこの計画に反対していた。

b

C

1861年、長州藩は藩士・長井雅楽が提唱する「○○○○策」を反論として採用した。これは幕府による開国を認めるものであったため、幕府の開国政策に批判的であった孝允らは激しく反発した。

b

G

1864年、京都の○○○で密会中の尊攘派浪士が新撰組に襲撃されるという事件が起こった。その日孝允は現場に赴いたものの時間が早かったので一旦戻り、その間に事件が起きたため偶然助かったのだと後年回顧している。

c

A

越中国出身の剣客。江戸の飯田町に練兵館という剣術道場を開いた。長州藩士に入門者が多く、門下生のなかから孝允をはじめ維新の功労者が輩出した。

c

F

吉田松陰が安政の大獄で処刑されたことを知ると、孝允は幕府から遺骸を受け取り○○○に埋葬した。

d

C

1849年、孝允は吉田松陰の門下に入り兵学を学んだ。吉田松陰は後に○○○○を主宰したことで有名であるが、当時は長州藩藩校の明倫館で教師をしていた。

e

A

1874年、孝允は大久保利通らが計画する○○への出兵に反対して参議を辞任した。

e

D

1864年7月の禁門の変で長州藩が敗れて以来、孝允は但馬出石に潜伏していたが、奇兵隊を組織した○○○○らの倒幕派が長州藩の実権を掌握すると65年4月に帰藩した。

f

E

第二次長州征討を計画する幕府に対し、孝允は当時村田蔵六と名乗っていた○○○○○を抜擢し、西洋式軍制への改革を推進した。

g

A

1875年、孝允らの尽力により「漸次○○○○樹立の詔」が出された。

g

E

孝允が幼い頃、近所に住む桂孝古という藩士は子を失い自身も病床にあったので、自分の死後に桂家を継がせるために孝允を養子として家名を保った。このように、危篤の際に家名を存続させるために養子を迎えることを○○養子と呼ぶ。

h

F

1863年、会津藩・薩摩藩などの公武合体派が、長州藩を中心とする尊攘派勢力を京都から追放した八月十八日の政変という事件の後、孝允は○○○○という変名を名乗り、京都で情報収集にあたった。

i

B

1868年に、新政府の基本方針を示した「○○○の誓文」と呼ばれる声明が公布された。孝允はこの過程で、「列侯会議ヲ興シ」の文言を「広ク会議ヲ興シ」に書き換えて諸侯会盟的な性格を払拭するなど、いくつかの重要な修正を加えた。

i

E

孝允が薩摩藩の西郷隆盛らと会談して結んだ薩長同盟は密約であり、成文化はされなかった。そのため孝允は、取り決めの内容を文章にして会談に同席した○○○○に示し、裏書きを頼んだ。

ヒント

解答