クイズで確認 知ってるつもりの日本人 ―― (49)平賀源内

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について「伝記」一冊分を読みおえたレベルの内容を“頭の運動”的な親しみやすいクイズ形式にまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1

  • タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
クイズ49
平賀源内
- クイズで平賀源内を確認しよう!
タテ
A a 1756年、源内は大坂を経て江戸に向かい、本草学者の○○○○(元雄)の弟子となった。
A f 源内は多くの号や筆名を用いており、浄瑠璃の作者としては○○○○と名乗った。
B c 1776年、源内は長崎遊学の際に入手していた摩擦起電器の復元に成功して○○○○○と称した。
C a 1780年、源内は誤って人を殺し、○○○○の牢で病死した。
C f 源内は1728年に讃岐国寒川郡○○○に生まれた。
D b 源内は○○○の系統の漢画や西洋画の技法を学んだ。
D e 少年時代の源内はいろいろなからくりや工夫により人々を驚かせ、○○○○と呼ばれた。
E e 1762年の○○○○○において源内は、ほぼ全国に広告を配布する、諸国に産物取次所を依頼するなどの斬新な手法で1300種以上の品を集めた。このことから源内は博覧会の創始者と称される。
F f 源内は1749年に父が没した跡を継ぎ○○藩に仕えた。
G b 1763年、源内は戯作文学の『○○○○○』『風流志道軒伝』を相次いで刊行した。
G h 1757年、源内は幕府の文教を司る○○に入門し儒学を修めた。
I a 1770年には源内作の浄瑠璃「○○○○○」が初演された。
I f 源内は長崎に2度遊学し、また蘭学医の○○○○らと交流があったが、自身でオランダ語を読解するには至らなかった。
ヨコ
a B 浮世絵師や漢画家として活動していた○○○○は、源内の影響を受け、また源内から西洋画法を学んだ小田野直武の指導を受けて洋風画家に転向した。
a F 1756年、源内は大坂で○○○○について医学と本草学を学んだ。
b A 1771年、源内は○○を素材として堺で毛織物の製造に着手した。
b E 1763年、源内は物産会出品物のなかから360種を選んで解説を加えた『○○○○』を刊行した。
c D 「源内」は通称であり、諱は○○または国棟といった。
c F 源内は1780年に死去し、橋場の○○○に葬られた。
d E 源内は○○○○の知遇を得ており、1780年に獄死した際には○○○○に助けられて匿われたという噂が流れた。
e A 源内は1773年に鉱山技術指導のため秋田藩に招かれ、小田野直武に洋画の技法を教えて○○○○に影響を与えた。
e F 1764年、源内は秩父で発見した石綿により耐火織物を作って○○○と名付け、幕府に献上した。
f H 1761年、源内は伊豆で○○(硫酸ナトリウム)を発見し、幕府の勘定奉行からその製造を命じられた。
g F 源内は戯作者としては○○○○・天竺浪人・悟道軒・桑津貧楽などの筆名を用いた。
h A 源内の父は○○○○(茂左衛門)である。
h F 源内は西洋博物学の研究を志してドドネウスの『○○○○』などの蘭書を集めた。
i B 源内は11歳の頃に「○○○○○」のからくり掛け軸を作成したとされる。
i G 1757年6月、源内は○○の聖堂に寓居した。
  • ヒント
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クイズ48
徳川家光
- クイズで徳川家光を確認しよう!
タテ
A a 徳川家康の死後、秀忠により家康を祀る○○○○○が創建されたが、家光は1634年からこれに更に大規模な造営を加え、今日に残る荘厳な社殿が築かれた。
A f ○○○○は、母である春日局が家光の乳母となった縁により幼い頃から家光に仕え、後に幕府の老中となった。
B b 家光は、祖父家康と同じ○○○という幼名をつけられた。
C b 1641年、幕府はオランダ商館を長崎の○○に移し、鎖国体制が完成した。
D f 1651年に家光が死去すると、長男の○○がわずか11歳で将軍職を継いだ。
E a 家光は柳生宗矩を兵法師範として剣術を学び、○○流兵法の印可を授けられた。
E f 1637年、○○○○(益田時貞)という少年を盟主として、キリシタンの農民による大規模な一揆が起こった(島原の乱)。この乱により、幕府はキリシタン禁圧と鎖国政策をより強く推し進めることとなった。
F e 家光は関白○○○○の娘を正室とし、以後歴代将軍は皇族や上級公家から正室を迎えた。
G b 1623年、家光に将軍職を譲った徳川秀忠は○○○と呼ばれ、将軍家光との間で二元政治が行われた。32年に秀忠が死去したことによりこの状態は解消された。
G g 五代将軍の徳川○○は家光の四男である。
H c 1635年、幕府は○○○○を制度化し、諸大名は定期的に江戸に出仕することを義務付けられた。
H g 家光の妹の和子は○○○天皇の中宮となった。○○○天皇は、「禁中並公家諸法度」の制定などの朝廷に対する幕府の抑圧政策を不満とし、興子内親王(明正天皇)に譲位した。
I a 1635年、幕府は○○○○○を大幅に改定した(寛永令)。
I f 家光は臨済宗の僧○○○○に帰依し、これを開山として東海寺を創建した。
ヨコ
a A 1651年に家光が死去すると、これを好機とみた軍学者○○○○を首謀者とする叛乱計画が立てられた(慶安事件)。叛乱は未然に阻止されたが、事件は幕府に衝撃を与えた。
a F 家光は祖父の家康を強く敬愛しており、晩年にはしばしば夢に見た家康の像を○○○○に描かせた。
b C 譜代大名の○○○○は酒井忠世・土井利勝とともに家光の補導役となり、家光の人格形成に影響を与えた。後に、家光を公衆の面前で叱正したため減転封され、後に蟄居した。
b H 家光は徳川秀忠の次男だが、兄の○○が早世したため実質的に長男として扱われた。
c D ○○○○は、幼い頃から小姓として家光に近侍した。後に老中となり、島原の乱を鎮圧した。幕藩体制の確立に尽力し、家光の死後は幕閣の頂点に立った。
d B 1639年、幕府は鎖国政策の一環として○○○○○船の来航を禁止した。
e B 寛永の大飢饉による農民の没落を防ぐため、幕府は1643年に○○○○○○の禁令を出した。
f B 家光の母は、北近江の戦国大名○○○○の三女の崇源院(江、江与)である。
f G 家光の弟の国松(後の徳川○○)は才能に恵まれて父母に愛され、幕府内外から秀忠の後継者とみなされていたが、春日局の直訴を受けた家康の裁定により家光が後継者とされた。○○は秀忠の死後に自害を命じられた。
g B 家康の代から行われていた朱印船貿易が鎖国により終焉を迎える前の最終段階として、幕府は朱印状に加えて幕府老中の許可証を持つ○○○と呼ばれる貿易船のみに海外渡航を制限した。
g G 初代の家康から三代家光までの○○政治に対し、家光の死後、幕政の基調は文治政治へと転換していった。
h B 明智光秀の重臣である○○○○の娘のお福(後の春日局)は家光の乳母となり、家光の将軍就任に大きな役割を果たした。
i A 家光の死後、その治世を支えた幕閣たちの死去により幕府の実権は「下馬将軍」と称された○○○○へと移っていった。
i F 家光の異母弟。高遠藩3万石、山形藩20万石を経て会津藩23万石を与えられた。家光の死後は幕政に参与し、政権を安定させた。
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