クイズで確認 知ってるつもりの日本人 ―― (62)井伊直弼

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について「伝記」一冊分を読みおえたレベルの内容を“頭の運動”的な親しみやすいクイズ形式にまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1

  • タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
クイズ62
井伊直弼
- クイズで井伊直弼を確認しよう!
タテ
A b 将軍継嗣問題において一橋慶喜を支持した一橋派に対し、徳川慶福を支持した直弼らの勢力を○○○と呼ぶ。
A e 開国論を唱えた開明派の幕臣。将軍継嗣に一橋慶喜を推し、徳川慶福を推す直弼から疎まれたが、外交交渉の第一人者であったためしばらくは処罰を免れた。直弼の下で井上清直とともに日米修好通商条約に調印した。後に直弼によって左遷・罷免された。
B d 条約勅許問題に際して関白○○○○は幕府支持に傾き、外交を幕府に一任する旨の勅を出そうとしたが、廷臣の反対運動により挫折した。
B h 井伊氏は戦国時代には○○氏に属していたが、直親が讒言により誅殺され、孤児となった直政が後に徳川家康に仕えて譜代大名となった。
C a 越前国鯖江藩主。直弼の下で老中として日米修好通商条約調印の事情説明のため上洛し、京都で志士弾圧の指揮を執った。江戸に戻った後直弼と不和になり免職された。
D a ○○○は大久保利通らを指導者とする薩摩藩の尊皇攘夷派グループ。薩摩藩における直弼暗殺計画の中心であり、水戸の同志と密会を重ねて計画を練った。
D f 国学者。主膳の通称で知られる。部屋住み時代の直弼に国学を講じ、師弟の契りを結んだ。直弼が彦根藩主になると側近として重用された。直弼の幕閣時代には京都で志士の動静を探り、その逮捕を進言して志士弾圧のきっかけをつくった。直弼の死後も彦根藩の藩政に参与したが、政変が起こり処刑された。
E c 1815年、直弼は彦根藩主井伊○○の十四男として生まれた。
F b 直弼は部屋住み時代に居合術を修め、自ら○○○流という流派を立てるほどの達人であった。
F e 江戸幕府第十三代将軍。生来病弱であり、実子がいなかったため後継者の選定が政治問題化した。直弼は紀伊藩主の徳川慶福を推し、一橋慶喜を推す勢力と激しく対立した。
G b 彦根藩は大名のなかで唯一○○の生産を認められており、その味噌漬は「養老の秘薬」として将軍家・御三家などに毎年献上されていたが、直弼は仏教の禁忌を忠実に守りこれを禁止した。
G e 1858年から、直弼が将軍継嗣問題・条約勅許問題における反対派を弾圧した事件を、当時の年号から○○○○○と呼ぶ。
H a 勅許を得ないまま日米修好通商条約を結んだことに対して直弼は、大政委任を受けた幕府が「臨機の○○」をとるのは当然のことであるとの見解を示し、「勅許を待たなかった重罪は甘んじて自分一人が受ける」とした。
H c 直弼が締結した不平等条約は明治政府にも引き継がれ、最終的に条約改正が達成されたのは1911年、○○○○○外務大臣の時のことであった。
I a 佐倉藩主。1855年に老中首座となる。開国政策を支持し、アメリカとの通商条約への勅許を得るため上洛したが、果たせないまま江戸に戻った。将軍継嗣問題でははじめ徳川慶福を支持したが、勅許の獲得に難航すると、その実現のために朝廷に信任のある一橋慶喜を支持する方針に転じた。慶福を推す直弼により老中を罷免され、さらに違勅調印の責を負わされ隠居させられた。
I f 福井藩士。大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾で蘭学などを学んだ。藩主・松平慶永に側近として登用され、一橋慶喜を将軍とする運動に奔走したが、直弼により徳川慶福が将軍後継とされた。直弼が行った弾圧で捕らえられて処刑された。
ヨコ
a A 1831年、直弼は藩から300俵の宛行扶持をもらい、彦根城第三郭の屋敷に移った。兄が多く、また側室の子であったため家督を継ぐ望みがないように思えた自身の境遇を花を咲かせることのない木にたとえ、直弼はこの屋敷を○○○と名付けた。
a E 水戸藩主であり、直弼の政敵。将軍継嗣問題では自身の実子である一橋慶喜を後継者に推し、徳川慶福を推す直弼らと対立した。直弼が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したことに怒り不時登城して直弼を非難したが、かえって不時登城の罪で謹慎を命じられた。
b B 彦根藩は、徳川家康に仕えた井伊直政が関ヶ原の戦功により○○○○の旧領である佐和山に18万石を与えられ、嫡子直勝の時に彦根城を築城して移ったことに始まる。
b F ○○○○は、江戸後期~明治初期の女性。京都で芸妓となり、後に直弼の寵愛を受けた。直弼が反対派を弾圧した際には情報役として陰で活躍し、尊攘派によって三条大橋で生きさらしにされた。
c A 直弼の暗殺後に次男の○○が跡を継いだが、事件の責任を問われて彦根藩は10万石を減ぜられた。
d C 1860年、直弼が水戸浪士らの襲撃を受け殺害された事件を○○○○の変と呼ぶ。
d G ○○○は、アメリカの商人・教育者で、初代駐日総領事となった。1858年、江戸湾小柴沖のポーハタン号上で日米修好通商条約に調印し、その功績により公使に昇格した。
e B 直弼が結んだ日米修好通商条約は、居留民に対する事実上の治外法権を意味する○○○○権、日本側の関税自主権の喪失などを含む不平等条約であった。
e H 1858年、直弼は江戸幕府の○○に就任した。
f A 直弼は片桐宗猿について石州流茶道の奥義を極め、茶号を宗観を称して『○○○○○』を著した。
g C 直弼が孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したことなどにより朝幕関係が悪化すると、朝廷は「○○○○○」と呼ばれる幕府の対応を批判する勅諚を水戸藩に下した。これは天皇の幕府・諸藩に対する最初の政治的所信表明であり、直弼に反対派の弾圧を決意させる一因となった。
h C 1847年、彦根藩が幕府から相州警備を命じられた際に直弼は、井伊家は○○○○の家柄であると反発した。
h H 江戸時代に刊行された、大名・旗本・幕府役人の名鑑を総称して「○○」と呼ぶ。直弼を襲撃した水戸浪士らは、この本を手にして、上巳の節句(桃の節句)で諸大名が祝賀のために登城する行列の見物を装っていた。
i A 薩摩藩を脱藩した浪士。直弼の襲撃に参加し、直弼を輿から引き出して首を取ったが自身も重傷を負い自刃した。
i G 井伊氏は○○氏を本姓とする氏族で、○○共保が遠江守に任じられて井伊谷に住み、井伊氏を称したことに始まるとされる。
  • ヒント
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クイズ61
徳川慶喜
- クイズで徳川慶喜を確認しよう!
タテ
A a 徳川家が新政府により静岡に移封されると、慶喜は浄土宗寺院・○○○の庫裏で謹慎した。
A e 1867年、フランスとの提携を重視する慶喜は、異母弟の徳川昭武をパリで開催された○○○○○に名代として派遣した。
B c 慶喜が養子にはいった一橋徳川家は、田安徳川家・清水徳川家とあわせ○○○と呼ばれる。
B f 1867年10月14日、慶喜が朝廷に政権の返上を上表し、翌日これが受け入れられたことを○○○○と呼ぶ。
C a 近代日本資本主義の指導者である○○○○は、幕末には一橋家家臣・幕臣として慶喜に仕えた。維新後、慶喜の復権を願い、私費を投じて『徳川慶喜公伝』を編纂した。
C g 1865年8月、幕府はフランスの援助を得て○○○製鉄所の建設に着手し、翌年10月に開業した。同製鉄所は明治維新により新政府に接収され、海軍工廠となった。
D c 福井藩主の○○○○(春嶽)は、13代将軍・家定の後継に慶喜を推し謹慎処分を受けた。処分を解かれた後、政事総裁職に任じられ幕政の指導的地位に立ち、慶喜が将軍になるとその施政に大きな影響力を持った。
E c 1866年12月に征夷大将軍に就任した慶喜は、同月の○○天皇の崩御を受け、翌年正月に国喪により長州征討の軍を解いた。
E g ○○○(篤子。通称篤姫)は、薩摩藩主島津家の一門に生まれ、13代将軍・徳川家定に嫁いだ。慶喜が朝廷に政権を返上すると、徳川家の存続と官軍による江戸城攻撃回避のために尽力した。
F a 慶喜の幼名。
F e 鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、慶喜は旧幕府軍の将兵を置き去りにして○○城を脱出し、江戸城に帰還した。
G b 鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に帰った慶喜は、朝廷に対し恭順の姿勢をとり、将軍家の菩提寺である上野○○○の大慈院に移り謹慎した。
G f 明治から昭和初期の政治家である徳川○○は、14代将軍・家茂の後継者候補として名前が挙がったが、当時まだ4歳であり、結局慶喜が将軍となった。後に、新政府の命令により徳川宗家の家督を慶喜から相続した。
H d 1867年12月、○○○○の大号令が出され、新政権の発足が宣言された。
H h 1864年、尊攘派の勢力挽回を図る長州軍と、御所を守る公武合体派の薩摩・会津などの軍が軍事衝突した○○の変(蛤御門の変)で、慶喜は禁裏御守衛総督として防衛軍の指揮を執った。
I b 1863年、○○○○○の政変で長州藩を中心とする尊攘派が京都から追放されると、慶喜は12月に上洛して朝廷の参与に任じられた。
I g 1855年、慶喜は一条家の養女である延君と結婚し、延は○○と名を改めた。
ヨコ
a A 江戸で生まれた慶喜は生後半年あまりで国許に移され、水戸で育てられた。学問は、『新論』を著し幕末の攘夷運動に影響を与えた儒学者の○○○○○などのもとで学んだ。
a F 公家。はじめ公武合体論者であり、尊攘派志士から佐幕派と見なされて排撃され、一時失脚した。後に倒幕派に転じ、薩長2藩への倒幕の密勅の下賜を実現させた。小御所会議では慶喜を擁護する山内容堂らを押し切り慶喜への処分を決定した。
b B 幕府大老の○○○○が勅許を得ないまま日米修好通商条約を結ぶと、慶喜は江戸城に押しかけこれを非難したが、逆に無断登城の罪で処罰を受けた。
b G 13代将軍・徳川家定の後継者として慶喜を推した一橋派に対し、紀伊藩の徳川慶福(後の家茂)を推した勢力を○○○と呼ぶ。
c E 慶喜は、4歳の頃から水戸藩の藩校である○○○に通った。
c H 1902年、慶喜は○○の爵位を授けられた。
d A 1867年12月9日に開かれた小御所会議では、慶喜に○○○○(官職と領地を返上すること)を命ずることが決定された。
e C 備中松山藩の藩主。1862年に老中に就任し、慶喜の徳川宗家相続と将軍職就任に尽力し、腹心として将軍・慶喜を補佐した。
e G 水戸藩の尊王攘夷派が関東各地の農民を率いて筑波山に挙兵し、各地を転戦した事件を○○○の乱と呼ぶ。主流の800名余は前水戸藩主の子である慶喜を頼って京都を目指したが、途中で力尽きて加賀藩に降伏した。
f A 1907年から25回にわたって行われた聞き取りによる慶喜の回想録。徳川慶喜伝記編纂事業の一環として編纂された。
g C 1868年の鳥羽・伏見の戦いに始まり、翌年5月の箱館戦争終結まで続いた新政府軍と旧幕府軍との内戦を総称して○○○○と呼ぶ。
g G ○○○(海舟)は慶喜に重用され、第2次長州征討の休戦交渉や新政府への江戸城明け渡し交渉などの困難な交渉を委ねられた。維新後、長男が早世したため慶喜の十男の精(くわし)を養子に迎えた。
h C 慶喜は、1837年に「烈公」と称された水戸藩主・徳川○○の七男として江戸の水戸藩邸で生まれた。
h F 14代将軍・徳川家茂が死去すると後継者として田安○○○の名が挙がったが、当時まだ4歳であり、難局を迎えた幕府を運営するために、最終的に慶喜が代将軍に就任した。
i B 長州藩の維新志士。慶喜の胆略を警戒し、「家康の再来」を見るようだと評した。
i F 1862年、藩主の父として薩摩藩の実験を握る島津久光が勅使・大原重徳を擁して江戸に入り、幕政改革を要求した結果、慶喜が新設された○○○○職に任じられた。
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