知ってる
つもりの
日本人
クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(19)大友宗麟 ―
はじめに
日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。
ルール

- 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
- 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
- 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。
ヒント

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。
【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。
【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。
【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。
例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。
(19)大友宗麟の解答
タテ
A |
a |
中国地方の大名○○○○(晴英)は宗麟の弟であり、傀儡の当主として擁立された。 |
A |
f |
宗麟の幼名。 |
B |
b |
1569年、九州への進出を図る毛利氏と大友氏の間に起こった合戦を○○○○の戦いと呼ぶ。両軍ともに多くの戦死者を出し、尼子勝久の毛利氏に対する反攻もあって、以後毛利氏は大友氏との和を求めるようになった。 |
B |
f |
中国地方の戦国大名・大内義隆が家臣の○○○の謀叛により滅ぼされた際に、宗麟は密約を結んで弟の晴英に大内氏の家督を継がせた。 |
C |
b |
1576年、宗麟は全国の八幡宮の総本社であり朝廷の尊崇も篤い○○八幡宮の上宮を焼き討ちした。 |
C |
e |
1578年、宗麟は島津方の高城を攻めたが敗れ、敗走中に○○で壊滅して膨大な戦死者を出した。これを○○の戦いと呼ぶ。 |
C |
h |
「宗麟」は法号であり、宗麟の諱は○○である。 |
D |
c |
○○○○は宗麟に滅ぼされた文種の子で、毛利氏を頼り旧領に復帰した。毛利氏や島津氏などと結び大友氏と争った。 |
E |
d |
16世紀半ばから17世紀にかけて、ポルトガルやスペインの貿易船と日本との間で行われた貿易を○○○○と呼ぶ。宗麟の時代に大友氏はこの貿易により繁栄した。 |
E |
h |
江戸時代に、○○の苗字を名乗り肥後細川家の家臣となっていた宗麟の子孫が大友姓を継承して、大友氏は高家として再興された。 |
F |
a |
肥前の戦国大名。大友氏が島津氏との戦いに大敗して勢力失墜すると大友領に侵攻して大勢力を築いたが、沖田畷の戦いで島津・有馬の連合軍に大敗して討ち取られた。 |
F |
f |
1578年、宗麟はキリスト教を嫌っていた妻と離婚し、その侍女を新しい妻に迎えて受洗させ、○○○○という洗礼名を名乗らせた。 |
G |
a |
○○○○(親賢)は、宗麟の妻の兄で、宗麟の側近。1578年の日向遠征の総指揮をとったが島津軍に大敗し、敗戦責任を追及されて所領の大半を失った。 |
G |
e |
日本にキリスト教を伝えた○○○○を府内に招いて面会した宗麟はその教義に感銘を受け、領内での布教を許可して府内に教会を建設した。 |
H |
c |
○○○○(戸次鑑連)は宗麟の家臣で、病弱な宗麟に代わって前線で指揮をとることが多かった。娘の誾千代に家督を譲ったことでも知られる。 |
H |
g |
1576年に南蛮国から大友氏に献じられたものが日本における最初の大砲とされる。大友氏の大砲は「○○」の名で知られ、1586年には宗麟が○○を用いて島津軍を撃退している。 |
I |
b |
日向国の大名。三位入道と号した。島津氏に領地を奪われ、宗麟を頼って落ち延びた。 |
I |
f |
1579年に来日したバリニャーノは、豊後府内に○○○○と呼ばれる教育機関を設立した。 |
ヨコ
a |
A |
リスボン出身のポルトガル人。貿易商として来日し、イエズス会に入会した。宗麟の庇護を受け、育児院・病院などを開設した。 |
a |
G |
宗麟は、1587年に豊後国○○○(現、大分県○○○市)で死去した。 |
b |
C |
1560年、宗麟は将軍・足利義輝から、室町幕府が九州統治のために設置した職である○○○○に叙任された。 |
b |
H |
宗麟は1578年に受洗してドン・フランシスコという洗礼名を受け、「不乱師子虎」「○○」などと署名し、また、「FRCO」を組み合わせた印章を用いた。 |
c |
E |
宗麟はポルトガル人司祭の○○○○により受洗を受け、洗礼名をドン・フランシスコと称した。 |
d |
B |
1569年、毛利氏の北九州への進出に対して、大友氏は○○○○に兵を授けて毛利領に送り込み後方攪乱をはかった。その結果、○○○○は追い詰められて自害したが、毛利氏を九州から撤退させることに成功した。 |
e |
A |
1550年に起こった大友氏の家督をめぐる御家騒動を大友○○○の変と呼ぶ。この事件の結果、宗麟が大友氏の当主となった。 |
f |
E |
宗麟の父の義鑑は、3男の○○○を溺愛し、宗麟の廃嫡をはかった。 |
f |
H |
1576年頃、宗麟は嫡子の○○に家督を譲り、大友氏は二頭政治となった。 |
g |
A |
島津家の侵攻のために領国の維持が危うくなり、豊臣秀吉に助けを求めるため大坂城を訪れた宗麟に対して○○○○は、内々のことは千利休に、公儀のことは自分に相談するよう声を掛けた。これは豊臣政権内における利休の権勢を示す逸話として有名である。 |
h |
D |
1562年、宗麟は○○城(丹生島城。現在の大分県○○市)に居城を移し出家して瑞峰宗麟と号した。 |
h |
H |
大友氏は鎌倉時代に九州に地頭職や守護職を与えられて移住し、現地で勢力を築いた幕府の御家人であった。同様の経緯で九州で大きな勢力を持った島津氏・○○(武藤)氏とともに「九州三人衆」と称された。 |
i |
B |
宗麟の軍師。1578年に宗麟が島津家との決戦のため日向に派兵した際、時機ではないとして延期を献言して宗麟に拒否されると、秘伝の書を焼いて出陣し討ち死にした。 |
i |
F |
宗麟は一門や家臣の妻女を強引に奪うなどの乱行が多かった。筑前支配の要であった○○○○がたびたび離反したのも、宗麟が○○○○の兄である一萬田鑑相や服部右京助らを罪なく誅殺し、服部の妻を妻妾にしたことが原因であるともいわれる。 |
ヒント
解答
(18)長宗我部元親の解答
タテ
A |
b |
元親の祖父の兼序のときに長宗我部氏は周辺豪族の攻撃を受けて岡豊城が落城した。家臣に伴われて城を脱出した元親の父・国親は○○○○の庇護の下で育ち、その助けにより旧領を回復し、周辺豪族を破って所領を拡大した。 |
A |
g |
「長宗我部元親○○○」は、戦国大名長宗我部氏の分国法である。元親・盛親父子が中心となり、一門・重臣の合議を経て制定されたと考えられる。 |
B |
c |
元親は、幼少期には「○○○」とあだ名されるほど柔和な性格であったとされる。 |
B |
g |
元親が豊臣秀吉から拝領した名馬。戸次川の戦いで窮地に陥った元親を乗せて敵中を突破し元親の命を救ったという逸話が残っている。 |
C |
a |
元親の幼名。 |
C |
d |
元親の正室は明智光秀の家臣・○○○○の妹である。 |
D |
d |
元親は、廃寺となっていた真言宗慶運寺を再興して臨済宗の寺とした。元親の死後、盛親が寺名を○○寺と改め、長宗我部氏の菩提寺とした。 |
D |
g |
1590年、元親は豊臣秀吉の北条氏征討に従軍し、○○○城を包囲した。 |
E |
a |
1580年、元親は織田信長との友好のため3000斤(約1800㎏)の○○を贈った。 |
E |
e |
長宗我部氏は、聖徳太子に近侍し蜂岡寺(広隆寺)を創建した○○○の子孫、あるいは蘇我氏部民の子孫であるとされる。 |
F |
b |
長宗我部氏配下の下級武士。兵農未分離で、農耕に従事する際には田の畦に武具を置き、事があればただちに軍役に服したのでこの名がついた。長宗我部氏の中核的戦力であった。 |
G |
b |
1586年、豊臣秀吉の命で島津氏攻略のため九州に出兵して戸次川の戦いで長男の○○を失って以来、元親は性格が一変した。 |
G |
d |
○○○○○○は長宗我部国親の三男で、元親の弟。安芸城主となり、兄を助けて四国統一に貢献した。 |
H |
a |
羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が戦った○○・○○○の戦いにおいて、元親は信雄・家康と結んで秀吉を挟撃しようとした。 |
I |
b |
元親の甥。元親が四男の盛親に家督を相続させようとしたのに反対し、切腹を命じられた。後に元親は木塚明神を建立してその霊をまつった。 |
I |
g |
1588年、元親は長宗我部氏累代の居城である岡豊城から○○○城(現在の高知城)に居城を移したが、城下町の治水工事が成功せず、1591年に浦戸城へと再び居城を移した。 |
ヨコ
a |
A |
○○○○は元親の三男。元親が豊臣秀吉に降伏した際には人質として秀吉のもとに送られ、家督継承問題の際は元親により幽閉された。関ヶ原の戦いの後、弟の盛親により殺害された。 |
a |
F |
元親の死後、関ヶ原の戦いで西軍に属して改易された長宗我部氏に代わって土佐一国を与えられた○○○○は、浦戸一揆や滝山一揆など、長宗我部氏遺臣の抵抗に苦しめられた。 |
b |
A |
織田信長は子の○○に四国の長宗我部氏の攻略を命じたが、その準備中に信長が本能寺の変で討たれたために元親は危機を脱した。 |
b |
D |
本能寺の変で織田信長が死去すると、元親は信長の重臣であった○○○○と結んで羽柴秀吉に敵対した。 |
c |
B |
元親の初陣は、1560年に○○○○の軍を破った長浜の戦いである。 |
c |
H |
○○は真言宗の僧で、滝本寺の住職であったが、その学識から元親に重用され、長宗我部氏の内政・外交に活躍した。 |
d |
D |
1574年、一条兼定が家臣に追放されると、その混乱に乗じて元親は一条家の所領を奪った。翌年、旧領回復を目指して兼定が挙兵すると、元親は○○○○(渡川)の戦いでこれを破った。 |
f |
A |
1596年、元親が治める土佐の浦戸にスペイン船サン=○○○○号が漂着するという事件が起こり、元親の報告を受けた豊臣秀吉により増田長盛が奉行として派遣され、取り調べが行われた。 |
f |
F |
島津貴久の四男。豊臣秀吉の命で九州に出兵した元親らの軍を戸次川の戦いで破った。 |
g |
D |
豊臣秀吉の家臣で、九州攻略の際には元親ら四国勢の軍監を務めた。無謀な作戦により島津軍に大敗し、元親の嫡子が討死した。 |
g |
H |
四国への侵攻を企図する羽柴秀吉に対して、元親は○○一国を返上する条件で和を講じようとしたが、秀吉はこれを認めず交渉は決裂した。 |
h |
B |
元親の跡を継いだ盛親は1600年の関ヶ原の戦いで西軍につき改易された。徳川家康に謝罪したが、戦いの後に家臣の○○○○の讒言に従い兄を殺害したことが家康の怒りに触れ赦されなかったとされる。 |
h |
F |
もとは土佐神社の神官であったが、元親に仕えて主に外交面で活躍した。秀吉による四国侵攻の際には、降伏するよう元親に進言した。 |
i |
A |
元親の代に長宗我部氏は領土を大きく広げ、元親は「土佐の○○○」と賞賛された。 |
i |
E |
1582年、元親は中富川の戦いで○○○○を破り、阿波国を平定した。 |