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日本人

クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(3)大久保利通 ―

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1
  • 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。

(3)大久保利通の解答

タテ

A

a

鹿児島を中心とする九州の士族が西郷隆盛を擁して起こした最大の士族反乱。利通が最高指揮をとり鎮圧した。

A

f

近世の石高制による租税を廃止し、定額の租税を金納することとした明治政府の改革。1871年に大蔵卿に就任した利通が政府財政の基礎確立のために提案し、1873年に実施された。

B

a

1877年、東京の上野公園で第1回○○○○○○○が開催された。これは利通が力を入れ、産業振興策の一環として開催された国家的イベントであった。

B

h

1872年末に琉球宮古島の漁民54人が殺害されたことに端を発する○○出兵問題で、利通は1874年に清国と交渉して日本の出兵を「義挙」と認めさせた。

C

e

1873年、遣外使節の副使としてドイツ帝国宰相○○○○○の招宴に参加した利通は、その話を聞いて感服し、傾倒を深めた。

D

h

1868年、利通は政府会議で京都から○○への遷都を主張したが、これは実現しなかった。

E

a

諸藩の藩主が土地と人民を天皇に返還した政治変革。利通はまず1869年1月に薩・長・土・肥の4藩の土地・人民返還を実現させ、続いて6月にこれを諸藩に拡大した。

E

e

土佐藩士の家に生まれ、維新志士として活動した。明治維新後に参議に任じられたが後に利通らと対立して下野し、自由民権運動の先頭に立った。

F

e

1873年、利通は内政を総括する広汎な権限を持つ○○省を設置し、その初代長官に就任した。

F

g

利通は、薩摩藩の○○○組に属する下級武士の家に生まれた。

G

a

1867年、京都御所内で○○○会議が開かれ、武力討幕派の利通らと徳川慶喜を擁護する山内豊信・後藤象二郎・松平慶永らの意見が激しく対立したが、最終的に豊信らが譲歩し徳川慶喜に辞官・納地を求めることが決定された。

G

d

明治政府が掲げた、国内の経済発展を図り軍事力を強化しようとする政策。

H

c

1868年の鳥羽・伏見の戦いから1869年の箱館戦争までの、新政府軍と旧幕府軍との間の一連の戦争を総称して○○○○と呼ぶ。

I

c

利通が遣外使節として欧米を歴訪している間、留守政府では朝鮮を征すべきとする○○○が高まっていた。帰国した利通や木戸孝允らは内治を優先すべきとしてこれに反対し、論争に敗れた西郷らは政府を去った。

I

f

佐賀藩士の家に生まれ、尊攘派の志士として活動した。維新後、大久保政権下で財政問題を担当した。早稲田大学の創立者としても有名。

ヨコ

a

B

1867年12月9日に発せられた新政府成立の宣言を「○○○○の大号令」と呼ぶ。

a

F

1878年に利通が暗殺されると、○○○○(後の初代内閣総理大臣)・山県有朋らの長州閥が政府の実権を握ることとなった。

b

A

○○○○が薩摩藩の藩主になると流罪になっていた利通の父・利世は赦免され、利通は改革派下士層の中心として活躍を始めた。

b

F

利通の次男。1871年に派遣された遣外使節に父の利通とともに参加しアメリカに留学。第一次西園寺内閣の文相・第二次西園寺内閣の農商務相・文相などを歴任した。

c

C

利通の父の利世は、高崎崩れ・○○○騒動などと呼ばれる薩摩藩の御家騒動に関わり流罪となった。そのため一家は困窮した。

c

F

1867年、利通の要請により、徳川慶喜の討伐を命ずる「○○の密勅」と呼ばれる勅書が薩摩藩・長州藩に交付されたが、これは天皇や摂政の関知しないところで出された偽勅であった。

c

H

利通は幼名を正袈裟といい、通称ははじめ正助、後に○○と称した。

d

B

利通は、西郷隆盛・木戸孝允とともに「維新の○○」と称される。

d

D

1876年、熊本で○○○の乱(敬神党の乱)と呼ばれる士族反乱が起こり、利通はその鎮圧に苦心した。

e

A

1871年11月から1873年9月にかけて、○○○○を特命全権大使とする使節団が派遣され、欧米12ヶ国を歴訪した。利通はこれに木戸孝允らとともに副使として参加した。

f

C

明治政府が掲げた、生産を増やし産業をさかんにすることを目指す政策。

g

A

利通ははじめ島津久光の意向を受けて、朝廷と幕府の協力により体制の安定を図ろうとする○○○○の立場で活動していたが、次第に久光の意向を越えて反幕に傾いていった。

g

F

利通をはじめとする薩長閥が全権を掌握して政治を行う現状を、反対派は「○○○○」であると非難した。

h

B

「東京帝国大学五十年史」編修に参加し、国立国会図書館憲政資料室開設などに尽力した日本史学者の大久保○○は利通の孫に当たる。

h

E

明治政府が旧来の藩を廃止して全国を中央政府の直轄支配とした政治改革。

i

B

旧佐賀藩士。1872年に司法卿に就任し、司法制度の整備に貢献した。後に下野して佐賀の乱を起こすが鎮圧され処刑された。利通は自ら戦場に赴き、処刑まで立ち会った。

i

F

1878年5月14日、利通が石川県士族の島田一良らにより暗殺された事件を○○○○の変と呼ぶ。

ヒント

解答

(2)勝海舟の解答

タテ

A

b

福沢諭吉は「○○○の説」という文章の中で、海舟が戦わずに江戸城を明け渡したこと、維新後に明治政府に出仕したことを批判した。

A

e

土佐藩を脱藩した志士。1862年、害になると判断すれば斬るつもりで海舟の屋敷を訪ねたが、その話に感銘を受け、その場で弟子入りしたといわれる。

B

a

1855年、海舟は、幕府が海軍の育成を目指して開設した教育機関である長崎○○○○○への勤務を命じられた。

B

f

1892年に海舟の長男・○○が41歳で死去すると、海舟は徳川慶喜の十男・精を養子として迎え、勝家の相続人とした。

C

e

1854年、海舟は海防に関する意見書を幕府に提出した。これがきっかけで海舟は海防掛目付・○○○○○(一翁)に見出され、その推薦により翻訳調所に出役することとなった。

D

c

海舟の幼名。

E

a

1830年、海舟は赤坂の自宅で○○○と称する蘭学塾を開いた。

E

h

海舟の父・小吉の生家は○○家であり、勝家は小吉が婿養子となる形で同家の旗本株を購入したものである。

F

a

海舟の父・小吉の自伝。江戸時代の口語体による自伝文学の傑作として知られる。

F

e

1874年、海舟は○○○○○が主導する台湾出兵に反対して明治政府の職を辞し、以後政府に出仕することはなかった。

G

c

海舟と新政府との交渉により江戸城の無血開城が実現したが、これを不満とする一部の旧幕臣は○○○を結成し、寛永寺に立て籠もって抵抗した。

G

g

海舟の蘭学修学時代には、○○利右衛門という箱館の廻船問屋がパトロンとなり、書物の購入費用として200両もの大金を海舟に預けた。

H

b

1860年、海舟は遣米使節としてアメリカを訪れたが、これは○○○○○○条約の批准のために派遣された使節であった。

I

a

海舟の死後、遺骨は別邸のあった○○池のほとりに埋葬された。

I

c

旗本。海舟・高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。海舟の使者として新政府の東征軍に書簡を届け、降伏交渉への道筋をつけた。

ヨコ

a

A

第二次長州征討の先鋒副総督である○○○○(伯耆守)が独断で和平交渉を試みて失敗し、老中職を罷免された際に、海舟はこれを擁護し、一方的に処罰しようとする幕府主流派の姿勢を批判した。

a

E

江戸を占領した新政府は、徳川家の所領を400万石から府中(静岡)70万石に削減し、徳川宗家を慶喜から○○○○(当時は田安亀之助と称していた)に相続させた。海舟もこれに従って家族とともに静岡に移った。

b

A

松代藩士。江戸深川で砲学塾を開いていた際に海舟と知り合って親交を深め、海舟の妹の順と結婚した。

b

F

1868年3月15日に予定されていた新政府軍による江戸城総攻撃の直前の13・14日に、海舟は薩摩藩邸で○○○○と会談し、総攻撃を中止させることに成功した。

c

B

海舟と新政府との交渉による江戸城の無血開城を不満とする海軍副総裁の○○○○は、主要軍艦を率いて北上し、五稜郭を占拠して箱館政府を樹立し新政府に抗戦した。

d

C

海舟は7歳の時に将軍・徳川家斉の孫の○○○の遊び相手に選ばれ、江戸城西の丸の奥に上がった。

d

F

明治~昭和期の言論人。海舟の晩年に、海舟の屋敷地内に家を借りていたことがあり、1932年に『海舟自伝』を刊行した。

e

D

海舟は長崎に勤務した際に梶○○という女性と知り合い、後に二人の間に息子の梅太郎が生まれた。梅太郎は9歳の時に初めて海舟と対面し、上京して海舟の屋敷に引き取られた。

f

A

1860年、海舟は遣米使節の随伴艦・○○○に艦長として乗船し、太平洋を横断してサンフランシスコに入港した。

f

D

○○○○(上野介)は、勘定奉行・海軍奉行・陸軍奉行などを務めて幕府を支えた中心人物の一人。新政府との講話を図る海舟には同調せず、徹底抗戦を主張し、徳川慶喜により罷免された。後に新政府に捕縛され、斬首された。

g

D

明治維新後の1873年、海舟は新政府から参議兼○○○に任じられた。

g

H

1887年、海舟は○○の爵位に叙された。

h

B

海舟は父の友人であった島田虎之助の道場に住み込み、○○○○の剣術を修めた。

h

G

幕府の財政経済史料を中心として、江戸時代の古文書・記録・法令などを収録した史料集。海舟が編纂し、1887年に成立した。

i

A

1843年、海舟は蘭学者・○○○○に入門して蘭学を学んだ。

i

F

1864年、海舟は○○○○に任じられるとともに安房守の名乗りを許された。

ヒント

解答