知ってる  
つもりの 
日本人

クイズで確認 知ってるつもりの日本人―(31)加藤清正 ―

はじめに

日本の歴史に登場した「知ってるつもりの日本人」について、"頭の体操"的な親しみやすいクイズ形式としてまとめてみました。ぜひチャレンジして、あなたの「知ってる日本人」としてください。解答は次回に掲載いたします。

ルール

※図1
  • 1. タテの位置をアルファベット大文字、ヨコの位置をアルファベット小文字で示した格子状の解答欄を用います。
  • 2. このパズルでは、解答は漢字(一部はカタカナ・ひらがな)で記入します。
  • 3. クロスワードパズルのように、タテのカギ・ヨコのカギとなるクイズを読んで、答えを解答欄に記入します。
    ただし、クロスワードパズルとは異なり、タテとヨコの解答が交差するマスには、基本的に違う文字が入ります。
    例:図1ではタテAaのクイズの答えが「北条時宗」、ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であるため、タテA・ヨコbのマスには「条」の字と「室」の字が入ります。

ヒント

※図2

ヒントとして、図2のような解答欄の各マスを数字で埋めた図があります。この数字は以下の規則に従い、そのマスに五十音のどの段(ア段・イ段・ウ段・エ段・オ段)で始まる文字が入るかを示しています。

【規則1】
ア段の音で始まる文字=1、イ段の音で始まる文字=2、ウ段の音で始まる文字=3、エ段の音で始まる文字=4、オ段の音で始まる文字=5と置き換えます。
例:「東大寺」は、「トウダイジ」の「ト」を5、「ダ」を1、「ジ」を2とし、「5・1・2」と置き換えます。
※この際、拗音や促音(小さい「や・ゆ・よ・つ」など)は無視します。
例:「律令(リツリョウ)」の「令」は「リヨ」⇒「5」とは考えずに、「リ」⇒「2」と考えます。

【規則2】
ヒントの図に記入されているのは、そのマスに入る数字の和です。
例:図1のタテA・ヨコbのマスには「条」と「室」の字が入るので、ヒント(図2)のタテA・ヨコbのマスには「条」=「ジ」=「2」と「室」=「ム」=「3」の和である「5」が入っています。

【規則3】
タテ・ヨコで文字が交差しないマスは1字しか文字が入らないので、その文字を置き換えた数字がそのままヒントに入っています。
例:図1のタテA・ヨコaのマスには「北条時宗(ホウジョウトキムネ)」の「北」の1字のみが入るので、図2のタテA・ヨコaのマスには「北(ホウ)」を置き換えた「5」がそのまま記入されています。
※このヒントを用いてクイズを解いていき、全てのマスを埋めます。

例:ヨコbAのクイズの答えが「室町幕府」であると分かった場合、「3(ムロ)・1(マチ)・1(バク)・3(フ)」と置き換えられますが、図2のタテA・ヨコbのマスに「5」、タテB・ヨコbのマスに「2」と記入されていることから、それぞれタテのクイズの答えとして「5-3=2→イ段」、「2-1=1→ア段」の文字が入ると分かります。逆にタテC・ヨコbのマスには「幕(バク)」の「1」がそのまま入っているので、解答が交差しないマスであると分かります。

(31)加藤清正の解答

タテ

A

a

清正は幼名を夜叉丸といい、元服後は○○○清正と称した。

A

e

1600年の関ヶ原の戦いでは清正は東軍に属し、九州を転戦して西軍方の城を攻略した。そうしたなか、同様に東軍に属して九州を転戦していた○○○○(孝高・官兵衛)の手紙で関ヶ原での東軍勝利を知らされた。

B

b

1611年、清正は○○○○を説得して二条城で徳川家康との会見を実現させた。

B

h

1596年に伏見城が○○により壊れた際に、謹慎中であった清正が豊臣秀吉の身を案じて真っ先に駆けつけたため謹慎を解かれたという「○○加藤」の話があるが、謹慎解除の真相は不明である。

C

d

1583年の○○○の戦いで清正は七本槍の一人に数えられる功績をあげ、近江・山城・河内などに3000石の知行を与えられた。

D

c

豊臣秀吉死後の1599年、○○○○が清正ら7人の武将の襲撃を受け、隠居を余儀なくされるという事件が起こった。

E

a

文禄の役で漢城に入った清正ら日本軍の諸将は、朝鮮を安定的に統治するため、朝鮮を8地域に分けてそれぞれに武将を配置するという、「○○○○」と呼ばれる政策を実施した。

E

e

清正は尾張国愛知郡○○(現在の愛知県名古屋市○○区)に生まれたといわれており、豊臣秀吉と同郷である。

E

g

1610年、徳川家康は西国の外様大名らに○○○城の普請を命じた。度重なる課役に不満を漏らした福島正則に対して清正は、「謀叛を起こす決心がないならば工期を急げ」とたしなめたとされる。

F

a

清正は死後に神格化され、いわゆる○○○信仰が日本中に広まった。

F

d

徳川家の天下になって間もない頃、江戸の城下を愛馬の○○○○に乗って往来する清正の姿は市民の間で評判となり、「江戸のもがりにさわりはすとも よけて通しゃれ○○○○」という唄が流行した。

G

d

1601年、前年の関ヶ原の戦いの論功行賞が行われ、清正は肥後国の南半を与えられ、肥後54万石の大名となった。関ヶ原の戦い直前には徳川家康から「肥後と筑後を与える」との内約を得ていたが、筑後は○○○○に与えられた。

G

h

1589年に○○で一揆が起きると、清正は援軍として出陣し、これを鎮圧した。

H

c

朝鮮出兵の際、清正は○○○○と騙されてセロリを日本に持ち帰ったとされており、セロリを清正人参とも呼ぶ。

H

h

加藤家の改易後に熊本藩主となった○○家は清正に対して江戸時代を通じて敬意を払い続け、その菩提寺である本妙寺を庇護した。

I

b

幼くして父を亡くした清正は羽柴(豊臣)秀吉に仕え始め、十代の少年期を秀吉の本拠地である近江国○○で過ごした。

I

e

1600年の関ヶ原の戦いで東軍に属した清正は、10月15日頃に西軍方の肥後国宇土城を開城させたのに続き、○○○○を説得して居城である筑後国柳川城を開城させ、28日頃まで柳川に在陣した後熊本に帰った。

ヨコ

a

A

1588年、豊臣秀吉は肥後国の北半国を清正に、南半国を○○○○に与え、何事も二人で相談して肥後国を治めるよう命じた。

a

F

1597年に始まった慶長の役では、清正は○○○○を大将とする右軍に属した。

b

C

1599年、清正は徳川家康の養女である○○○を正室に迎えた。

b

G

1586年に播磨国にある5000石ほどの○○○(直轄領)の代官に任じられたのをはじめ、清正は豊臣秀吉から数ヶ所の○○○の管理を任された。このことから、清正ははじめは武将としてよりも吏僚としての能力を評価され秀吉に取り立てられたと考えられる。

c

C

清正は、文禄の役における出費をカバーするため○○(フィリピン)との貿易を計画した。

c

G

1597年の○○の戦いは、慶長の役において清正らが明・朝鮮連合軍に○○城を包囲された籠城戦。普請の途中であったため城中には十分な水・兵糧がなく、12日間にわたる籠城で多数の餓死者・凍死者を出した。

d

A

1591年、清正は豊臣秀吉から、明征服のための前線基地として○○○城の築城を命じられ、黒田長政らとともに城の普請を行った。

d

H

○○神社の大宮司職を代々受け継ぐ○○氏は惟光の代に島津氏に滅ぼされた。後に惟光は一揆の首謀者と讒言され、豊臣秀吉に死を命じられた。清正は惟善に350石の領地を与え、○○神社を復興した。

e

E

清正の死後は子の○○が跡を継いだが、御家騒動などにより改易され、加藤家は断絶した。

f

B

清正は母の影響で○○宗を熱心に信仰しており、領内ではキリシタンの弾圧政策をとった。

g

A

豊臣秀吉の死後、1599年に○○○○が秀吉の法度に背いた徳川家康を詰問し、一時はそれぞれの下に諸大名が参集するという一触即発の事態になったが、清正らの奔走により和解が成立した。

g

F

清正は文禄の役で、オランカイと呼ばれる朝鮮半島北方の○○族が住む地域に遠征し、明への侵攻ルートの視察を行った。

g

H

清正は文禄の役において、臨海君・順和君という朝鮮の二人の○○を捕らえた。

h

C

清正が築いた熊本城は1877年に○○○○の戦場となった。攻城側の薩摩軍は一兵も城内に入ることができず、熊本城の堅城ぶりが証明された。なお、薩摩軍の総攻撃が行われる3日前に出火して天守閣と本丸御殿一帯が全焼した。

i

A

豊臣秀吉により九州が平定されると、○○○○が肥後国の領主に任命された。しかし一揆が勃発したため○○○○は解任されて自害を命じられ、その後任として清正が肥後北半国の領主に任じられた。

i

F

朝鮮出兵で清正が領国を留守にしている隙を突き、島津氏の家臣が清正の佐敷城を占拠した事件を○○○○と呼ぶ。

ヒント

解答

(30)黒田如水の解答

タテ

A

b

いわゆる「中国大返し」の際、如水は○○○○○から借り受けた毛利家の旗を陣の先頭に立て、毛利軍が秀吉の軍勢に加わっているように見せかけたとされる。

B

a

はじめ如水は○○○を武士のやることではないと嫌悪・嘲笑していたが、豊臣秀吉から誰にも怪しまれずに軍事の相談ができるのも○○○の効用であると教えられて納得し、稽古を始めたとされる。

B

f

1567年、如水は櫛橋伊定の娘の○○(光の方)と結婚した。

C

b

フロイスの書翰によれば、如水は1583年に○○○○に導かれてキリスト教の洗礼を受け、シメオンと称したという。

C

f

文禄の役で朝鮮に在陣していた1593年、如水は○○○○と囲碁をしていて石田三成らを待たせ、さらにこのことを豊臣秀吉に弁明するため無断で帰国したので秀吉の怒りを買い蟄居謹慎を命じられた。

D

d

1582年、明智光秀が山崎の戦いで敗れて○○○城に退却すると、如水はこれを攻める際に逃げ口を一ヶ所開けるよう羽柴秀吉に献策したとされる。これにより逃亡する兵が続出し、光秀も城を捨てて逃げざるを得なくなり、逃走中に落ち武者狩りに遭って死亡した。

D

g

如水は織田家の部将として中国地方攻略のために下ってきた羽柴秀吉に自身の居城である○○城を提供し、自らは国府山城に移った。

E

a

『大和本草』の著者として知られる江戸時代前期から中期の儒学者・博物学者。福岡藩に仕え、君命により『黒田家譜』を編纂した。

E

g

如水には長男の長政のほかに○○○という男子がいたが、1597年の慶長の役の際に、如水の許可を得ずに城を抜け出して朝鮮で戦っていた如水や長政のもとに向かい、嵐で船が転覆して16歳で死去した。

F

a

関ヶ原の戦いの論功行賞で嫡男の長政が筑前52万石の領主となると、如水は○○の地を福岡と改称し、福岡城の築城を開始した。

F

d

豊前国の大名。苗字は「城井」とも称される。豊臣秀吉の九州攻略の際、はじめは帰服したが、転封を命令されるとこれを拒否して反乱を起こし、黒田長政の追討軍を破った。1588年に講和が成立したが、如水の謀略により多くの一族とともに謀殺された。

G

f

1600年の関ヶ原の戦いでは如水は東軍に属し、肥後半国の領主で同じく東軍であった○○○○と連携して九州の西軍と戦った。

H

c

如水の家臣。諱は友信。福島正則から名槍「日本号」を飲み取ったという逸話があり、民謡「黒田節」として知られる。

I

a

1578年に如水が敵方の有岡城に幽閉された際、織田信長は如水が戻ってこないため敵方に寝返ったと勘違いして如水の子の松寿丸(後の長政)を殺すよう命じたが、○○○○(半兵衛)が自らの判断でこれをかくまった。

I

e

1597年の慶長の役で、豊臣秀吉は○○○○○を総大将とし、如水をその後見役に任命した。

ヨコ

a

A

豊後国の大名。朝鮮出兵の際に敵前逃亡したため豊臣秀吉の怒りを買い改易された。関ヶ原の戦いが起こると旧領回復を企てて豊後に入り、馳せ参じた旧臣により3000ほどの軍勢を形成したが、石垣原の戦いで如水に敗れた。

a

F

1587年、如水は豊臣秀吉の弟の秀長に従って島津氏征討に参加し、○○○の戦いで島津軍を破った。

b

D

如水の父職隆は、御着城の城主○○政職に属し、○○姓を与えられた。如水もはじめは○○姓を名乗っていた。

b

G

黒田氏は、1511年に足利義稙・細川高国らと細川澄元・三好之長らが争った○○○の戦いにおける軍令違反のために如水の曽祖父にあたる高政が近江を追われ、備前国に移住したとされる。

c

D

1569年、○○○○の軍を青山の戦いで破り、如水の武名は一気に高まった。

d

A

黒田氏は、近江源氏・佐々木氏が信綱の子の代に4家に分かれたうちの○○氏の支流とされる。

d

E

如水の家臣。諱は基次。九州攻略や文禄の役などで戦功を挙げた。如水の跡を継いだ長政と折り合いが悪く、黒田家を去った。後に豊臣家の招きに応じ、大坂の陣で戦死した。

e

B

1578年、如水は織田信長に背いた有岡城主○○○○を説得するため有岡城に入ったが、説得に失敗して幽閉された。

e

G

鎌倉幕府が編纂した史書『○○○』は諸本のなかでも国立公文書館内閣文庫に所蔵されるものが一番の善本とされる。これは、1590年の豊臣秀吉による北条氏征討の際に、小田原城開城の折衝に当たった如水に対して北条氏から贈られたものとされる。

f

E

1583年、如水は豊臣秀吉の命令で普請奉行として○○城の築城を開始した。

g

A

1575年、如水は主君を説いて織田信長への従属を決断させ、使者として岐阜に赴いた。この際、信長から「○○」(「○○長谷部」)という刀を与えられた。

h

A

1591年、豊臣秀吉の命により、如水は肥前○○○城の縄張を担当した。

h

D

1582年、備中○○城を水攻めにしていた羽柴秀吉のもとに本能寺の変の知らせが届いた際に、如水は秀吉に対して天下を取る好機だと助言したとされる。

h

G

1587年に豊臣秀吉から豊前国6郡を与えられた如水は、翌年○○城に入り、ここを居城とした。

i

A

1584年、如水は○○○○○の娘を嫡子長政の正室に迎えた。

i

F

如水は、同じキリシタン大名の○○○○が1600年の関ヶ原の戦いで敗れて斬首されると、その旧臣のキリシタン武士を多く召し抱えた。

ヒント

解答